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イエスという名

ルカ2:21-38 
 
イエスという命名は重要です。21節はそう大きく扱われないことが多いのですが、私たちはここに絶大な力を見るべきだと思います。人が神に名をつけたのです。たとえ天使が告げたことに従ったというのであっても、人が神に名をつけたというのは、偶像の場合は当然ではあっても、このイスラエルの神に対しては無理な話であるはずでした。
 
名は体を表すと理解することがありますが、主はそれまで、常に自ら名を示すばかりでした。神の称号めいたものや、形容的なものは、人間の側からも呼ぶことがありましたが、このイエスというのは、名そのものです。神は救い、というような意味を思わせる響きのある名前であるそうですが、こうしてイエスが名実ともに世に現れたことになります。
 
けれども、よく見ると「幼子はイエスと名付けられた」となっています。聖書でなにげない受動態は、実は隠れた神という主体によってなされるものであることがしばしばあり、神的受動態などとも呼ばれます。本質的には神がやはり主体であるのでしょうか。それもよいでしょう。でも曲がりなりにも、人の世で人がイエスと名づけたのは事実です。
 
この名を地上で有することになった幼子が、初めて巷へ姿を表し、デビューしたことが次に描写されます。この意義は小さくないと思われます。しかもエルサレムに来たのです。どうしてもエルサレムに登場させなければ、ルカとしては気が済まなかったのでしょう。さらに12年後に少年となったイエスもまた、エルサレムの中で描かれるのです。
 
シメオンとアンナが現れます。どこまで実在性が認められなければならない人物か、疑われもします。特にアンナは、その細かな紹介があり、資料に基づいているとも考えられますが、イエスがエルサレムにおいてデビューするにあたり、それを飾る預言が誰かによってなされなければなりませんでした。そうルカとその共同体は考えたのです。
 
ルカにとり、福音はイスラエルから全世界へと発され、伝わっていくべきものでした。シメオンは、イスラエルの栄光というものを表に出します。アンナはエルサレムの贖いについて人々に語ります。こうして、栄光と贖いのエルサレムが示されます。こうしたテーマは、ルカが福音書でどうしても表現したかった本質的なものではないでしょうか。
 
そしてこれは、ルカとその共同体が見ていた世界像の描写でもありました。シメオンやアンナの人間的性格に拘泥している場合ではありません。神は救いだというそのイエスの名が、贖いと栄光を伴って、世界へ救いとして知らされていく初めであり、その全貌を簡潔な形で象徴する記事として、まとめられていたのだ、と受け取りたいのです。

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