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選ばれたダビデ

サムエル上16:5-13 
 
いつまでサウルのことで悲しんでいるのか。主に促されて、預言者サムエルは、エッサイの許へ遣わされます。預言者が小さな村へ来るのは、只事ではありません。村人たちの不安に対して、サムエルは、これは平和なことだと告げて安心させます。それからいけにえの儀式を行いました。主との契約の上で重要な何かが始まるという意味です。
 
村人たちもこれに加わります。人々が皆、主の前に出るのです。サムエルは、エッサイの息子たちの中に、サウルの次の王が見出されることだけを、主から聞いていました。ここからはサムエル自身の、人間としての眼差しにより、選択がなされます。エリアブという、恐らくエッサイの長子であろう若者が、最初に目をつけられました。この人ではないか。
 
ところが、主が介入します。違う。容姿や背丈の問題ではない。見た目に囚われるな。サムエルは、目に見えるもので判断したが、主は心、あるいは信仰の点で選り分けると教えます。恐らく他の年長の息子たちから、次々とエッサイは息子たちを紹介しますが、サムエルは、悉く否みます。サムエルは、主の選びの者ではないと分かったのです。
 
もういないのか。まだいるはずだ。エッサイは、羊の番をしている末の子がまだいる、と答えます。父親は、そのダビデを、初めから神の選びの対象だとは全く見ていなかったことが分かります。連れてこられたこの末の子は、血色が良く、美しい目をしており、姿も立派でした。聖書がこのように、人間の容姿を詳しく描写するのは珍しいことです。
 
でも、それもまたしょせん目に映るところなのではないでしょうか。ところが新約聖書には、「目は体の灯」(マタイ6:22)とイエスが言った場面があります。これを思い起こすと、「目は美しく」というこの末の子についての描写が、「全身が明るい」という望ましい人のあり方へとつながって理解されるかもしれません。
 
主はサムエルに「立て」と命じます。行動を起こすことを意味します。さあ、油を注ぐのだ。彼こそその人物である。油注ぐというのは、王として任命することであり、その言葉がギリシア語訳では「キリスト」となりました。このときから主の霊が激しくダビデに降るようになります。これでサムエルは役割を終えて、舞台から去ることになります。

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