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平和が川のように

イザヤ48:17-22 
 
イザヤを通じて、これでもか、と主なる神の存在が伝えられてきました。古来イスラエルでは、神なるものの存在自体が問題にされることはありませんでした。神があるのは当たり前の前提であって、とやかく論ずる事柄ではなかったのです。だのにこれほどまでに念を押されるというのは、それだけ神の支配が動揺し薄れていたということを暴露します。
 
こんなにおまえを愛し、赦し導いてきたのに、どうして耳を傾けないのだ。しかしイザヤは、単純な怒りで以てこれを制しようとはしません。豊かなイメージで語りかけようとします。それは、水です。乾いた荒野を潤す水、目の前に川を描けと言います。こよなく穏やかな、ゆったりした流れの川。水面がキラキラ光を輝かせています。
 
時の流れを思わせながらも、すべてを抱きこみ包みこんで流れていく川。それは、平和そのものを伝えようとしているように見えます。川に象徴される平和がもたらされるのです。海の波はリズムよく時を刻むものでしょうが、何かが揺らす世の中も、一定の動きの中に解消されていけばよいと思います。トラブルも揺れる中に消えていくのならば。
 
しかし、神の正義はあるときガチンとイスラエルの正義として実現するでしょう。まずひとつはバビロンからの解放です。この第二のイザヤは、すでにそれを見ていると思われます。囚われの地から奇蹟的に解放されたことを預言します。キリストに従う者も、実はすでに解放されています。もう何ものにも囚われてはおらず、つながれることもありません。
 
かつてはエジプトから脱出する荒野の道は、乾いていたことでしょう。度々水がないと民はざわめきました。それは魂の渇きをも意味していました。岩の間から、主が岩を裂いて水を出したこともありました。岩なるキリストを突き刺したところから、命の水がほとばしり出たのです。いえ、キリストからは血と水とが流れ出たとヨハネは証しします。
 
キリスト者には、そのキリストの十字架の姿がいつも目の前にあるはずです。イザヤを通してもたらされた預言は、旧いイスラエルの時代の出来事でありながら、それより先に起こったキリストの救いの出来事とも重なることで、改めて命のメッセージとして伝わってきます。この神の傷みにより、平和が川のようにもたらされたのです。

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