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預言たるもの

ハバクク3:13-15 
 
バビロンへの捕囚を背景として告げられた預言であるそうです。今からその事態に陥るという情況のようですが、すでにそうなることを経験した立場から言葉が紡がれたのかもしれません。未来を予言することではなく、神からのメッセージを預かるという性質上、見せかけの予言がそうでない場合もあるということは弁えて然るべき事柄です。
 
そんな文献的な調査は、研究者をお任せするとして、たとえどのように書かれたものであるにせよ、いまここで私がどう受け止めれば、私が生かされるのかに心を注ぎたいと思います。預言者の言葉は、そのためにここにまで届けられたのだ、と。旧約聖書の大きな分類は、律法と歴史と知恵と、そして預言。単なる過去ではない、生きた言葉です。
 
ユダの王を、主は救おうと臨んでいることをハバククは宣べます。いくら敵が攻めてきても、この王と王国は守られるのだというのです。それが救いの神の業です。それはもう成就したものとして理解できます。なにしろ敵たちは、見てごらんなさい、空しく敗れゆくではありませんか。イスラエルを荒らし貧者を苦しめた敵も、もう力はありません。
 
主は弱い小さな者たちをも守るのだ、そうハバククは言うのですが、本当のところはどうだったでしょう。ユダは結局敵にあしらわれ、潰されたのではなかったでしょうか。ハバククが見たものは、文字通りただの幻でしかなかった模様です。あの歴史の中の捕囚は、いま私たちに何を語りかけてくるでしょう。そしてこの預言は何なのでしょう。
 
油注がれた者、これが王たる者ですが、キリストをも重ね暗示しています。ここにキリストを見るとすれば、これから起こることをこの預言の中に見出してもよいのではないかと私は思います。つまり、黙示録の世界を見てもよいのです。神が定めた決着をそこに見ます。悪人は裁かれ、敵の戦士たちはいかに誇っていようとも力尽きて死ぬのです。
 
あなたは自分の民を救う。これがヨシュア、つまりイエスの名にこめられた意味であり、使命でした。イエスが現れて救いの業を成し遂げた後は、イエスの時代です。そのとき、ハバククの預言は一つの現実となりました。今後改めて再びキリストとして終わりをもたらす時が来たならば、いま一度この預言が再現されることになるはずです。

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