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終末を生きる立場から

詩編9:2-11 
 
主に感謝を献げ、主を喜び祝すのだ。この詩はいつのことをうたっているのでしょうか。もちろん詩人ダビデのいた時代に違いありません。でも、私の敵が退き倒れ、主の前から滅び去ったのを見ている時とはどういう情況なのでしょう。主が裁き手として自分の裁きを守り行ったと言っています。悪しき者は滅び、その名をあらゆる面で、つまりその本質までもすべて消し去ってしまったのだ、と言っています。
 
敵はすでに、永遠に廃墟となり果てたのです。ダビデが今見ているこの景色は何でしょう。幾多の町を焼き討ち滅亡させたことは、記録を見る限り確実だと考えられます。敵が滅び失せたというのも正しいはずです。神の前に、敵を討ち破り、連戦連勝であったというのも、正しいでしょう。ダビデは作戦の巧者であり、見事な軍人でしたから。
 
今までこうして自分を、勝利させ続けてくださった神が、とこしえの座から、これからも守り裁いてくださるという確信もあったとしてよいし、世界の神であるとして、その視野を世界全体へ広げてもおかしいということはありません。でも、ここで考えてみたいのです。やがてくる、この世界の本当の終わりの時を描いているのではないか、と。
 
つまり、いま私はこれほどの敵の滅びを見ているわけではありません。悪魔の敗北は、しかし終末の出来事として聖書が約束しています。主がそれを成し遂げるのだ、と。その光景をダビデが預言していたという設定は、ダビデの意識とは別に、禁じられるものではないと考えてみたいのです。それはこの詩の中にも、思わず出ているような気もします。
 
主は虐げられた人の砦となり、苦難にある者が呼べば応える、とダビデは言っています。ダビデが攻略し滅ぼした町の人々こそ、その虐げられ苦難に喘ぐ人ではあるかもしれません。そして勝ち続けるダビデは、もはや虐げられている人ではありません。主に見捨てられないという信頼は、終末を生きるいまのダビデこそ、抱くものではないでしょうか。

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