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謎の水と天と陸

創世記1:6-9 
 
神は、光を現われさせます。それに続いて、大空が、水と水とを分けるようにと言いました。「あれ」と神が言う言葉は、出来事として成立します。言葉たるもの、起こることがすでにそこに含まれているようなものとされています。それはヘブライ語のもつ意味に基づくとも言われていますが、神がそうだから、その語がそう意味するとすべきでしょう。
 
神の霊が、そもそも水の面を動いたいたと始まったくらいですから、すでに水があったかのように読めてしまうのが不思議です。神が水を創造したという記述はどこにもないのです。実は大昔から存在し、地は神の言葉によって、水を元として、また水によって成った、そのようにペトロ二3:5には書かれていますから、新約の時代の理解はこれでしょうか。
 
神が天を造ったのが大昔から存在していた天を表すのかもしれませんが、この創世の第二日には水を前提としていたというのが、やはり地の創造そのものが水に基づいていたというイメージにより理解したくなるのは仕方がないことなのかもしれません。ただ、それは私たちの想像する物質としての水と同一視はできないような気がします。
 
「天」と名付けられたものにしても、当時の宇宙観や常識に基づく理解であるはず。パウロが「第三の天」にまで引き上げられたとするコリント二12:2にしても、天が幾つもの層に分かれていると見る当時の考えによるものだと言われています。雨の降る天に水の世界があり、地の海に水があるというのは、確かに水が分かれているとしか言えません。
 
大気空間を挟んで上と下に水があるとき、この大空をして天と見ているのがこの創世記です。天の下の水は、陸をもたらすため、海として集まった水のみの場所をつくる、それが第三日の説明となりました。ここまでをひとつにまとめて見ることにより、水についての考えを整理することができるかもしれません。
 
世界は水に満ちていました。それが上下に分かれて天なる空間が現われ、下の水が集まったところが海、水が去ったところに陸が造られたということのようです。依然として私たちはその「水」というものを、かの人々と同じように捉えることは難しいままですが、私たちの生命がその水によって成り立つことを思うと、生命の神秘すら考えてしまいます。

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