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人とは何ものなのか、問い続けるために

創世記1:24-31 
 
海と空の動物に続いて、陸の動物という順を、創世記は設定しました。これをさしあたり獣と呼びます。人の出現前に家畜とそれを呼んでよいものかどうかは知りませんが、後にそう称されるものが創造されたという意味に受け取りましょう。新改訳はここで神の言葉に「さあ」を淹れています。原文にはないけれども、勢いが感じられます。
 
新改訳は「われわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と訳し、聖書協会共同訳は「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう」としています。「かたち」と「似姿」とは、文脈上同じことを指していると思われ、その差異にこだわる必要はないとしておきますが、語義からすると、それらは像またはイメージと、肖像または似ていること、となります。
 
この神の言葉に続いて、地の文として、次節では自分の「かたち」即ち神の「かたち」というふうにイメージの語で統一しています。代表させるとするなら、こちらがよいと思われます。人は、何らかの意味で、神の「かたち」を引き継いだものと見ることもできるでしょう。この人は、空と陸の生き物を治める、あるいは支配するように命じられます。
 
これはもちろんそのまま事実となりました。支配することから、自然をぞんざいに扱うようになり自然破壊をもたらした、と短絡的に批判する人がいてよろしくないと思いますが、これは「管理する」意味が強くこめられている表現です。人と自然の関わりを考えるためには、もっとここから考え学ぶ必要があろうかと思われます。
 
草木も人に与えられ、これこそが食物となっている点にも注目する必要がありましょう。人の食べ物は当初肉ではなかったということです。生き物たちもこの草木を食します。するとここにあるのは、私たちの理解する「食物連鎖」とは違う構造であるように見えます。専ら生産者としての植物があり、消費者としての動物があるという世界です。
 
神の創造は、これにて完結します。造ったすべてのものを神はご覧になりました。人とは何ものなのでしょう。私たちは問い続けなければなりません。安易な答えで解決した気分になるのはやめましょう。この創世記の記述の解釈ひとつとっても、単純に結論が出るわけではありません。私たちは、この世界と人について、問い続けなければなりません。

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