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太陽と月と光

創世記1:14-19 
 
天地創造の第四の日。どう見ても太陽と月の創造です。昼と夜とを分けるための光るものが天の大空にあれ、と神は言います。神の言葉は実現と等しいのでそれでよいのですが、第一の日に、光を昼と呼び、闇を夜と呼んでいたのでした。これは決して、太陽だとは書いてありませんでした。月のことがそこにあるのでもありませんでした。
 
聖書の側に立つ人と、聖書の反対に立つ人と、それぞれにあって、このことが説明される場合があるので興味深いものです。どうすれば適切に説明できるでしょうか。でも、明らかなる矛盾であるのなら、誰がそのようなことをわざわざ恭しくこういう場に記すでしょうか。接近した場所に矛盾を記し、後世の人が修正もしないということはありえません。
 
きっと文化的イメージの異なる考え方が、そこにあるのでしょう。第四の日は太陽と月であるとしますが、これは天体現象として昼を治めるように、また夜を治めるように、と置かれたと思われます。昼と夜とがそれ以前からあったとしても、不思議なことではないというわけです。夕と朝は第一日からすでに繰り返されていたのでした。
 
宇宙の理論からしても、太陽と月は宇宙の始まりから90億年ほど経って生じたと考えられており、宇宙開闢が光からだとすると、ビッグバンの光は太陽や月とは異なることになるため、驚くほど聖書の指摘が的を射ていることが分かります。神は光あれと言っただけで、闇を夜と呼んで悪がそれだとまで言うのは早計ですが、味わいは確かにあります。
 
そう、ビッグバンの光に、ダークマターまで押えていると見ることは、科学理論の説明ではないにしても、日常語でこの事態を表そうとした創世記が、なかなか聞くに値するものではないかと思われるのです。この解釈はこじつけに過ぎないかもしれませんが、それでも、科学で見出された理論と、不思議な脈絡でつながっていることを覚えます。
 
神は、世界を見てよしとしました。世界の創造は、神が一つひとつ認めながら進んでいきます。この中で、星々もその位置が指定されていきます。星と言えば、キリストの誕生の地に博士たちを東方から呼び、知らせ導いた星を思い起こします。私たちはというと、自身の心の中の闇の中で、神の愛が光るようになったことを重ねることもできるでしょう。

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