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主のために

東京神学大学の学長であった左近淑氏の、神学生に対する(入学式での)説教であろう、画家・彫刻家の保田龍門氏のエピソードが紹介された。留学中に母の訃報を聞く。そこで詩の言葉で母を悼む。「母上よ、私はあなたの墓標となりたい/私をあなたの墓標にしてください」と。そこで学長は語る。神学生たる者は「イエスさま、どうぞわたしをあなたの墓標にしてください」という祈りが必要である、と。
 
つまり、自分を見てくれ、これがイエスという方がどういう方かを示しているのだ、と言えるような歩みをしろ、ということだろうか。いや、それは口調が強いかもしれない。この私を見れば、私の信じているイエスという方がどういう方か、きっと分かってくださる。このくらいでよいだろうか。私の存在そのものを以て、イエスを指し示すものとなりたい、という願望のように捉えても構わないだろうか。私はとても自分をそういうものとして見せることはできない。ただ私は道標として、「こっちを見てください、イエスさまですよ」と指さすくらいができたら、自分としては十分だと思っている。
 
ただこのエピソード、「イエスの墓標」という表現が、私の中では引っかかり続けた。「墓標」という語は、「そこに人が埋葬されています」という意味を含むのが普通であろうと思われたため、イエスは埋葬されてなどいないので、どうしても結びつかなかったのだ。埋葬されていなくても、没年などを記した祈念碑をそう呼ぶこともあるだろうが、それでも「没」が引っかかる。尤も、墓石業界の声を聞くと、事情で敷地内に墓石がまだ建立されていない間にそこに立てておくものを「墓標」というらしい。「仮の墓」と理解してよいという。これにしても、やはり死者のためのものである。
 
イエスは生きている。キリスト者には、この大前提がある。それ故、私は「イエスの墓標」にはなることはできない。この点で引っかかりをもつ聴き手は、ほかにもいたのではないか。注釈が欲しかった。
 
ところで本題は、そこではない。ローマ書14章の前半部が開かれた。神学校のための祈りをこめたメッセージには、もちろん嘘はないし、鋭い問いかけにも力があった。メッセージ性の豊かさには感謝するばかりである。
 
ローマ14:8だけを比較してみる。
 
わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。(口語訳)
 
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(新共同訳)
 
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(新改訳2017)
 
生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(聖書協会共同訳)
 
主要な公的な聖書の訳は「主のために」で一致している。そこが、私にはどうしても引っかかりをもつ、ということを述べたい。
 
というのは、私はかつて、カルト色のある教団に通ったことがある。最初に行った教会だったので、なにしろ自分は罪人だという意識ばかりが強かったので、しばらくは言いなりであった。だが、聖書を読めば読むほど、何かが違う、という違和感が強くなっていった。かなり言い争いのようなことをして、今の妻と共に飛び出すのであるが、不思議な導きがあって迎えられた福音的な教会で、ある方が親身に相談にのってくださった。そのときに、目が開かれたアドバイスがあった。
 
今までのところは、「主のために」何かをするのだ、という教えが強かったのでしょ。でも、方向が違うの。「主から」なのよ。
 
「主のために」ということが強調されると、その主語は自分であり、人間となる。人間の力で何かをするのだ、ということからまず始めるようなものは、聖書の原理とは違うことを明言したのだ。私の中でなんとなく感じ続けていた違和感が、はっきり言語化された瞬間だった。そうだ、まず「主から」来るのだ。だから恵みなのだ。なんて簡単な原理で説明できるのだろう。対比による言葉は、なんと明るくて、清々しいのだろう。その瞬間の様子は、今もなお昨日のことのように、脳裏に浮かぶ。
 
では果たしてこのローマ書で、パウロが言っていることはどうなのか。少なくともこの訳では、誤解を生じることはないのだろうか。さあ我々は神のためにこれこれをやろう、神のために頑張ろう、という気持ちを助長するようなことに、なりはしないだろうか。
 
私は知っていた。ここにはギリシア語で、「~のために」を表す前置詞は使われていない。すべて「与格」である。専門的にはいろいろな働きを挙げる方がいるだろうが、概ね日本語で「~に」に該当する格である。パウロはこの辺りの箇所に、前置詞というものの存在を忘れたかのように、裸の与格のままの語を立て続けに並べていく。たぶんそのリズムで、気分良く書いて(あるいは口述して)いるのではないか、と想像される。良い口調なのだ。だが、前置詞がないと、どんなニュアンスで言っているのか、曖昧になることがある。あるいはまた、様々な意味合いを重ねてもつことができるように、わざとそのように限定しないという可能性もある。
 
そこで、試しに「~のために」を「~に」と入れ替えてみよう。聖書協会共同訳を用いれば、「生きるとすれば主に生き、死ぬとすれば主に死ぬのです」となる。私の個人的意見で言えば、訳出はこれでよいと思っている。この「~に」に、どのようなニュアンスを含めるかは、読み手が決めればよい。否、読み手の出会った経験の情況によって、様々な「~に」の形で読み替えて然るべき時があるのではないか、というのが、私の聖書に対するスタンスである。
 
たとえば、田川健三氏はここのところを、「何故なら、もしも我々が生きているのであれば、主に対して生きているので、死ぬならば、主に対して死ぬのである」と訳している。この人は、「~に対して」で代表させたのである。もちろん、「~に」の訳においても、この意味で受け取ることを拒むことはない。
 
「主に生きる」「主に死ぬ」、皆さまは、それぞれどのような意味合いで受け止めるであろうか。ただ、どの場合でも、自分が主の方を適切に向き(即ち的を外さず)、主と向き合っている様子を私は想像する。その中で、「主のために」としてしまうと、その構図について、いかにも人間の側から働きかける、人間主体の色が濃くなってしまうような気がする。「~に」で留めていれば、言うなれば、主のために何をもできないような自分を嘆くキリスト者がいたとしても、この箇所は、堂々と読めるのである。それは、この説教でも例が挙げられた。年を取りあれがこれがとできなくなっても、最後までできることがある、なお役割がある、という慰めは、まことにその通りである。
 
そのような様々な人のエピソードは有り難かった。時間的な制約もある。それだけたくさん盛り込めば、さらに願うのは無理なこととは知りながら申し上げれば、説教者自身のエピソードが聞きたかった。ほかのキリスト者の話は他人事として雄弁に語るが、自分については何も体験がないためにひとつも話せない、という人を複数知っているので、わずかでもいいから、聞きたかったのが正直なところである。(それとも聞き逃していたか?)

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