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説教・出会い・我が事・従え

こうした宣教において起こることは、キリストと聴衆との出会いである。そこでは説教は、既に起こった出来事、イエス・キリストの歴史の証言である。そしてこの証言において、イエス・キリストの歴史 die Historia Jesu Christi が、われわれと同時のものとなる。いっさいの距離は消え、見物していたような態度は捨てられ、このキリストの歴史は自分のために起こったのだと受け取るようになる。具体的な危機の中にある自分を訪ね求め、慰めてくださる、キリストのあわれみの物語として、これを読むのである。ここでも主題説教か講解説教かが問題になる。主題説教では、このキリストの歴史を捕えることはできないであろう。倫理的勧告を考えても、イエス・キリストの物語の中から、「われに従え!」という呼びかけとしてこれを聞くことがなければならないのである。
 
――以上は、引用である。アイヒホルツという人の書いた文章「宣教の形式問題について」からであるというが、引用したのは、加藤常昭先生である。その本は、『福音主義教会形成の課題』といい、新教出版社から「今日のキリスト教双書」シリーズの一冊である。発行は1973年9月。すでに半世紀を経て、私は手にした次第である。
 
加藤常昭先生が44歳のときの著書である。まだ若い力に溢れているとはいえ、読書量からしても、また牧会経験も増やしている点からしても、活発な意見が現れる時期であっただろう。その後も、教会論は果てしなく展開する。その細かな内容を私は知るわけでもないし、検討する力もないわけだが、ここで述べられていることは、その後の加藤先生の歩みにとっても、決して異質なものではないと言えるだろう。
 
こうした声を、私は他の本からも幾度も聞いてきた。それに教えられ、説教というものについての考えを深めてきた。本書は小さな文書を集めたものだが、教会論をテーマとしながらも、結局一番大きなものは、説教論であることが、ひしひしと伝わってくる。説教こそが、教会を建てもするし、潰しもするのだ。
 
アイヒホルツの文章を再び見返してみよう。まず、「宣教」と称しているが、これは「説教」と呼んでも差し支えないものである。説教において、何が起こるか。「出会い」である。説教において、聴衆はキリストと出会うのである。
 
説教は、イエス・キリストの歴史を語る。イエス・キリストとは誰であったか。何をしたのか。何が出来事となったのか。それを証言する。ここに救いがある、と指し示すのである。
 
このとき、イエス・キリストの歴史は、聴衆のいまとつながる。聖書は昔の話だ。それが自分と何の関係があるのだ。そういう思い込みや姿勢は、「出会い」が起こったとき、もうすでに消えてしまうものである。聖書や教会というものを、腕組みをして見下ろし、高みの見物をしていたような、それまでの自分の姿は、とんでもない偽りであった、と痛感するようになるのだ。
 
自分は神の前にいる。自分はこのままではヤバい。自分は罪があるではないか。自分はこのまま世を去ってよいはずがないではないか。己れの存在が、クライシスそのものとなって襲ってくると、自分の立つところがぐらぐら揺れ始める。
 
だが、幸いにもキリストと出会ったのだとしたら、この聖書の記事は、自分のために書かれたこと、自分のために起きたことである、と知るようになる。キリストの十字架と復活は、正に自分のために起きた出来事だったのだ、ということを信じるようになる。否、信じるという過程すらいらないほどに、それは自分のためだ、と知るのである。キリストが、その自分の前にまで、来てくださったからである。
 
キリストは憐れみ深い。それを、自分に対する憐れみが実現した、ということで知ることになる。聴く者が、他人事としてではなく、我が事としてその説教を聴くことができたとき、それは同時に、神の言葉が出来事となったときなのであり、言葉が命となってその者の魂の中で実現するときであるにほかならない。このとき、神は自分を憐れんでくださった、ということがひしひしと実感を伴って分かるのである。
 
主題説教と講解説教という考え方がさらに比較されている。講解説教を、筆者は薦めている。講解説教は、徹底的にテキストそのものに聴くことを主眼とする。聖書のテキストから、聞きとろうとすることである。それは、聖書に書かれた順番を解説を加える、という意味ではない。ただ神が言わんとしていることを受け取るためには、ペリコーペの終わりから読み解いても、それは構わないわけである。
 
他方、主題説教は、説教者が語りたいテーマが先に決まっていて、それに応じて縦横に聖書箇所を引用する場合が多い。だが、それは人が定めた枠の中に、神の言葉を流し込むリスクを伴うことを弁えておくべきであろう。主題説教は、倫理的勧告を強くもたらすことができるかもしれない。人の世の倫理を強調することもできるだろうからである。だが、筆者は言う。そこにはキリストの歴史を説くということは中心から外れてしまうのであるし、イエス・キリストからの呼びかけを聴くことはできないであろう、と。
 
つまり、人が定めた筋書きの中からは、人の声は聞こえても、イエス・キリストの声は響いてこないものである。イエス・キリストの歴史、言葉を語ろうとする講解説教においてこそ、キリストの歴史が告げられ、そこにイエス・キリストの物語が、自分の登場する場面となってその場に実現する。だからこそ、聖書の中でイエスが命ずる言葉も、正に自分に突きつけられているということを知るのだ。「われに従え!」との言葉を。

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