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詩編第2編より

黙示録を連続公開説教している説教者とは別の説教者による。ルカの福音書を拾い集めながらの説教が多かったが、前回から「詩編」に入っている。詩編は、信仰の入門のためにも心に響きやすいものが多い。他方、いまでもそうだが、多国語の詩の良さというものは、翻訳からは味わいにくいのも事実である。
 
正直苦しさを伴う、という告白もあった。だが、それを感じたままでいいと思う。神から、その詩編を通して何がもたらされたか。たとえば今回は詩編2編である。「なにゆえ」から始まっている。これは原語でもそうである。つまり「なぜ」という疑問詞から始まる。第1編が「幸いなり」から始まるのと対照的である。
 
だが説教者は、この第1編と第2編は、共に詩編全体の「序」のような役割を果たしているのではいないか、という。私は第1編はそうかと思っていたが、第2編については意識していなかったので、新鮮に聞こえた。
 
私たちは確かに、いつでも疑問を呈する。「なにゆえ」、このようなことが起こるのか。世の人は、神を信じる道に入らない言い訳として、「神がいるならなぜこうした悲惨なことが起こるのか。罪なき人々が災いや戦争で苦しまなければならないのか」と問うことがある。中には、クリスチャンを自称していながら、それを真っ向から主張する人もいる。
 
そんなことは説明するだけの知恵を、人間は持ちえないであろう。それを流暢に説明する、というのも不誠実であるような気がする。牧師という立場だったら、しかし沈黙していても気まずい場合があるだろう。傷ついた人を無視するように、「信仰です」と豪語するのもどうかと思うが、「神もそのとき災いに遭っていたのです」とすれば説明したことになる、というのも、どうにも理屈が先行しているような気がする。
 
詩編を口ずさんでゆく中で、一人ひとりに光が当たることを願うばかりだ。この詩編の初めにおいては、「いかに幸いなことか」で始まる第1編と、「いかに幸いなことか」で終わる第2編との中で、この2つの詩を、声を出して読み上げていよう。
 
説教者は、使徒言行録やルカ伝などから引いてイエス・キリストを証しすることを目指しつつ、メシアを証言し、指し示すための生き方を提言する。詩編に書いてあることを目指すというよりも、私たちは詩編にある生き方ができるかどうかチャレンジを受けるとよいのである。イエス・キリストが、即位された王として、いま目の前に立っているだろうか。
 
そのイエスの姿は、十字架の上で手を拡げたままであるかもしれない。だが、それだけで終わりはしない。イエスは殺されたが、死に勝ち、復活したのだ。
 
「今日、わたしはお前を生んだ」という「今日」は、ヘブライ書でも強調されているが、いろいろに受け取ることができる。今日のカレンダーのことでないことは確かだ。昨日でない今日という意味ではないのだろう。何かしら特定の「その日」であるだろう。預言者たちが言う「主の日」のことだと言ってもよい。カイロスというギリシア語は、一種の主観的な時刻のことを意味するものと言われる。聖書世界では、それは何かしら特別な、決定的な「時」のことを指すとされる。
 
それは、人間の側から見れば、人間の歴史に神が介入してきたことのように見える。人間しかいない世界に、神の国が現れるのだ。これは、キリスト者の姿そのものである。そして、教会の姿である。教会とは、もちろん建物の謂ではない。キリストに一人ひとりが救われ、行かされた魂の集いである。人間の世界に、言わば理由なく出現した、神の国の現れである。
 
教会の一人ひとりが、神に出会い、神を愛すること、そしてそれ故に人を愛することを求めて生きている。主に仕える魂であり、救いを喜ぶ者たちである。これが、神の支配を受けた場に相応しいあり方であり、だからこそ、神の国の出現と言えるのである。
 
神に出会い、救いを受けたのならば、自らをのみ注視して、自分に絶望する必要はない。自分に厳しくすることがよいと思われると、それをやってしまいがちになるが、誤解である。自分が神の国のためにどんなに相応しくないか、汚れているか、それは確かに自ら認識する通りである。だが、それを受け容れ、清めたのが、イエス・キリストの十字架であったのだ。詩編には、そのことが直接書かれているわけではない。だから、その後のイエスの言葉を重ね、そこにつながれたものとして、私たちは信仰の目と心でそれを知るようになる。
 
私の人生は、私の思うようにスムーズにはいかない。だが、よく信仰者は口にする。後から振り返れば、それは最善の道だったのかもしれない、と。この見方を、どのような人にも強制するつもりはない。不幸な人、苦難に見舞われた人に、そんな残酷で無責任な言葉を投げかけるつもりはない。ただ、自分のためには振り返ってもよいだろう。自分には別の人生もあった。あの岐路で選んだものが別のものだった場合、人生はすっかり変わっていたことになるだろう、と。しかし、それが幸福であったのか。それは分からない。むしろ、神が共にいるという道は、いまのこの道でしかなかったのではないか、とさえ思うのだ。そしてそれが、「信仰」ということだ、と言ってよいのではないか。
 
キリストが見えるだろうか。神との出会いを、どのように確証できるか、分からない人はいないだろうか。旧約の時代は、心許ないものだったかもしれない。だがキリストが現れて以降、それは極めて分かりやすく、はっきりしている。キリストが神への道である。私たちは、キリストを通してのみ、神とつながることができる。そのことを教えてもらった。しかも、イエス・キリストの流した血によって、それが突貫工事のように形成されたのだ。
 
説教者は、何か自分に思い当たる苦しい思いを胸に抱いたまま、それとすりあわせるかのように、聖書の言葉とそれにまつわる言葉を、つないで引き出していた。その思うところのすべてを、聞く者が知るわけではない。まして私のような鈍い者が、何かを感じ取ったとか、理解したとかいうものではない。むしろ、徹底的に鈍いが故に、本当の辛さが何であるか、本当の悲しみがどういうものであるのか、それを感じ取ることができないのであって、そのため、メッセージそのものが揺れ動いているかのようにも聞こえてしまうのだった。
 
それで、私に見えた風景を、とりとめもなくお応えしたようなものとなった。

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