「ファン」だとか「アンチ」だとか「ファンチ」だとか

 別にどうでもよくない? ……と思うのだが、一部のVTuberや、VTuber視聴者にとっては、意見や感想を発している人間が「ファン」なのか「アンチ」なのか「ファンチ」なのかが重要で、話の内容に関してはどうでもいいようなのだ。極めて理解に苦しむ思想だが、この問題を考えてみると、いくつかの気付きがあったため、ここに記しておこうと思う。

 VTuber界隈における「ファンチ」とは

 まずは上記の女帝セツナの記事と、そこで取り上げられている屍鬼の動画を観ていただきたい。ここでは「ファンチ」について、「アンチ行動を取るファン」「ファンの振りをしたアンチ」だと定義している。

 また、バーチャル悪代官によれば、「ファンチ」とは元々はsyamu界隈の用語であるという。さらにsyamu界隈では「ファンに見せかけたアンチ」である視聴者を指しているが、VTuber界隈では少し意味合いが違い、「ファンなんだけど、要求が多かったり、上から目線」の視聴者を指していると言う。

 さらに、烏丸さきは「愛が重いマシュマロが増えてきました」とし、視聴者が烏丸に意見をしながら「ファンチ」という言葉を使うマシュマロに対して、「最近このファンチというワードを自重ぎみに用いる勢力がいまして、僕としては皆さん立派なファンなので、胸を張っていてくださいという感じですね」と返している。

 ここからが本題だが、セツナや屍鬼が言うような「VTuberが自身の心を守ることのほうが重要だ」とする意見は確かに尤もなことだと思う。しかし、VTuberが設置したマシュマロで迷惑と思われる(可能性がある)ような意見を送る視聴者というのはアンチなのではなく、悪代官や烏丸が言うように「ファンなんだけど、上から目線だ(愛が重い)」と表現するほうが正しいように思う

 無論、ファンの振りをしたアンチも紛れているとは思うが、この界隈のアンチにそれほどの熱量があるとも考えづらい。コンテンツ量がはんぱないので、半端な覚悟ではそもそも意見を送ること自体が難しいからである。

 いや、そもそも意見を送ってきた相手が「ファン」なのか「アンチ」なのかなど気にする必要がないだろう。要は「相手の言うことは受け入れるべき意見なのか否か」を判断すればいいだけの話であって、相手が何故そのような意見を送ってきたのかなどと推察する意味などない。「こういう意見もあったんですが、私のスタンスとしては受け入れられないですね」と言えばいいだけの話である。

 加えて言えば、屍鬼は「仲間が敵じゃないか?って疑うのが一番辛いんだ」としており、その心情自体は理解できなくもないが、そもそもファンは「特定の対象が好きな者(愛好家)」、アンチは「特定の対象が嫌いな者」と訳すくらいが適切で、ファンが「仲間」でアンチが「敵」だとするのは、かなり過激な思想だと思われる。

 そもそも「ファンチ」という用語を生むこととなったsyamuの場合で言えば、正直なところ彼はインターネット上でおもちゃにされるコンテンツであり、正しい意味での「ファンチ(ファンに見せかけたアンチ)」に"支えられている"と言っていいだろう。ここで「ファン」が支える者=仲間、「アンチ」が足を引っ張る者=敵と解釈するのは正しくない。むしろ「アンチ」や「ファンチ」によって人気を支えられているクリエイターも存在するのである。

 しかし、何故屍鬼は、いや彼の言葉に追従する者たちは、ここまで相手が「ファン」なのか「アンチ」なのか、あるいは「ファンチ」なのかを気にするのだろうか。物事の本質からかけ離れている思想だと思われるが、キズナアイの登場からVTuber界隈を振り返ってみると、その思想もなんとなく理解できてきたと思うので、下記に記す。

 「キズナー」や「シロ組」といったファンの名称が及ぼした影響

 VTuber界隈において、特定のVTuberのファンは特定の愛称で呼ばれることが多い。キズナアイの「キズナー」や、電脳少女シロの「シロ組」などがその例である。そして、なんとなく「キズナー」と言うと「絆で結ばれたファンたち」、「シロ組」と言うと「シロが好きな仲間たち(組合)」といったイメージが沸いてくる。

 本来「ファン」と言えば「愛好家」という意味しかなく、仮にファンであっても肯定的な意見ばかりではなく否定的な意見も言うものだし、逆にアンチであっても常に否定的な意見を言うわけではなく、その対象にとって為になるような意見を言うこともある。しかし、ファンに与えられた特別な愛称は、ファンが特別な絆で結ばれているかのように印象付ける効果があったのである。

 だが、それによって「ファン」の対義語である「アンチ」を「輪を乱す者」という意味合いで使用する勢力が現れ始めたのではないだろうか。無論、「アンチ」を「輪を乱す者」「敵」などという意味合いで使う者は、VTuber界隈に限らず少なくない。しかし、「ファンチ」という言葉が本来の意味合いとは若干違う形で受け入れられた背景には、キズナアイや電脳少女シロなどが築き上げた「やさしい世界」の影響があったのではないかと考えられる。

 そう考えると、屍鬼らが「ファンチ」に過敏に反応する理由も見えてくる。つまり彼らの世界には「ファン=仲間」か「アンチ=敵」しか存在しないのであり、その中間層は存在しないのである。そして彼らは「ファン」のことは大切にすべきだが、「アンチ」のことは無視していいと考えているのである。

 これまでのネット上におけるコンテンツとしても異様な光景に見えるが、それらはすべてVTuber界隈の特殊な土壌の影響によるものであろう。特殊な土壌から特殊な思想や文化ができあがるのは、確かに納得のことである。

 また、私見だが、屍鬼はそういったことを「分かっていてやっている」存在だと思うし、彼の言葉によって救われた者も確かに多く存在するのだろう。彼は特殊な土壌により過激な言動を取らざるを得なかったのだと解釈している。「正しいこと」しか言わない悪代官や烏丸とは、別の方向で賢いVTuberだと思う。

 実際問題、視聴者の意見に対してはどう向き合うべきなのか

 さて、ここからは余談のような話となるが、本記事は「ファンチ」に対する擁護意見のつもりはないので、視聴者から寄せられた「意見」に対して、VTuberはどう向き合い、どう受け止めるべきなのかを述べていこうと思う。

 本来ファンのことを第一に考えるならば、視聴者の意見に対してもっと真剣に耳を傾けるか、あるいはどんな意見であっても最初から話半分に聞いておいてスルーするかすべきである。前者が心理的負担になると言うならば、別に後者で構わない。

 どうせ視聴者の9割は自分自身の気持ちもよく分からないまま意見を述べているだけであり、真剣に聞くのはいいが、真剣に受け入れる必要などない。無論、この視聴者には私自身も含まれる。私もどうせ何も分かっていないのである。

 それにしても配信者として長く活動を続けていれば、視聴者の言ってることの9割はどうでもいい、くだらない内容だという判断がつくようになってくるものだと思うが、VTuber界隈はまだブームになってから日が浅く、VTuber側も視聴者側も相互に経験が少ないのである。だからVTuberは正しい意見の受け止め方が分からないし、視聴者も正しい意見の送り方が分からないのである。VTuber界隈における「ファンチ」も、実際のところそのほとんどは「よく分かっていないだけのファン」であろう。

 そういう風に書くと「ファンチ」に対する擁護意見だと思われるかもしれないが、要はVTuberと視聴者が相互に経験不足であることが、VTuberを心理的に疲弊させる要因であるという話である。

 そうであるならば、もっと経験を積むべきだという話になるが、配信者としての経験が浅くても登録者数が数百、数千、数万という人気になり得るのがVTuber界隈である。十分な経験がないのに、そうした数の視聴者と向き合わなくてはならないというのは確かに容易なことではないし、視聴者からしても自分たちがVTuberを人気に押し上げたという意識が少なからずあるものだから傲慢になってしまうのである。

 また、単に意見の取捨選択ができないというだけの話ではなく、経験が少ないので「こういうスタンスで活動してるから、この意見は受け入れられません」と言えるほどの自信もないのである。まだ活動の方針を模索中なときに、無責任な視聴者から多くの意見が寄せられてくるから疲弊してしまうのである。

 そのため、一時的な時間稼ぎとして「ファンチ」という言葉が好まれたのである。これは「下積み時代」がほとんどないことによる弊害である。

 無論、意見を送ることが必ずしも悪なわけではないし、意見を送れる場所が用意されているならば、意見を送ること自体はまったくもって正当な行為である。一般に「ファン」と「アンチ」の対立が激しいとされるコンテンツであっても、「適切な場所に意見を送ること自体は正当な行為である」という見解が主流であるように思う。意見を送っただけで、攻撃的な態度を取る者がいるのはVTuber界隈における特殊性の一つであろう。

 VTuber側も嫌な意見を見たくないのであれば、意見の管理を第三者に委託したり、有料会員限定のファンコミュニティを開設したり、方法はいくらでもあると思うので、まずはそういった対策を考えるべきだろう。

 ところで、これは予言だが、界隈全体が成長していけば、「ファンチ」という言葉は自然と使われなくなるだろう。「意見」に対してどう向き合うべきか、どう伝えるべきかがVTuber側も視聴者側もお互いに分かってくると、「ファン」だとか「アンチ」だとか「ファンチ」だとか、そういう言葉になんの意味もないことが分かってくるからである。「ファンチ」とは、一時的に心理負担を軽減するための呪文に過ぎない。このような言葉には耐用に限界があるし、限界を迎えさせなければ成長もないのである。無論、必ずしも成長しなければならないという話でもないのだが。

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