2024-07「穴ぼこを横方向に掘りつづけている妖怪みたいな存在」

 今月もツイートをまとめます。先月から書くことがなくて飽きてきた。けれど、続けるよ。


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映画:『ルックバック』

 話題作。第一に、作品のテーマ、創作を志す者の初期衝動とその業、に興味をもてないだろうという予感があったうえに、第二に、劇伴にたいする否定的な感想を見ていたので、好きな作品じゃなさそうだなと鑑賞前に思っていた。結果はそのとおりだった。

 前者は原作にいうべきことだとして、後者については映画としてきびしい欠点だと思う。ピアノとストリングスがのびやかに鳴り響いていても面白くない。ただし、藤野が雑誌連載に取り組むシークエンスだけドラムが加わるところで体温がぐっと上がったので、私はパーカッションの欠如を不満に思っていたのだということに気づいた。

 そして、まったく同じ不満をシャニアニに抱いていたのだった。あの作品もパーカッションの興奮を欠いている。抑制しているのかもしれないが。いずれにせよ、この発見をもたらしてくれたことは、この作品を見てよかった点だ。

シャニマス:『アイドルマスター シャイニーカラーズ2nd season 第1章』

 シャニアニの2ndシーズンの劇場公開がはじまった。4話まで見るかぎり、前シーズンから劇的に面白くなったわけではない。見ていて、「アー!」と目を背けたくなる瞬間もあった。

 安心できるのは、ライブシーンになると楽しいという美点は変わっていない点。ストレイライトのパフォーマンスをスクリーンで見られて、気分は盛り上がった。

 次の第2章は、いよいよゲームの評価の高いシナリオを語り直す。ここまでシャニアニの芝居の演出(≠演技)におもしろさを感じていないので、たぶん自分は満足しないだろうな、とすでに諦めている。もちろん、ちゃんと見るけどね……。

第二章予告編より

 こういうカットが、一話につき二、三個ほしいです!頼むぞ!という気持ち。

 不満が出てくるので、自分はシャニマスの何が好きなのかな、と考え直していた。このコミュよかったです。三峰さんはどんどん褒められてほしい。どんどん評価されてほしい。

 このアーカイブをバックグラウンド再生で聴いていたときに、安野さんとすれ違ったのでした。

 今回の選挙結果は、自分の投票行動が同世代だと少数派に属するものであることを知ってびっくりした。同い年の友人が左派っぽいことをいっているところを一度も見たことないから、そらそうか。投票行動に反映されなくとも、「消えてもらっては困る」とは考えていてほしい。

 同世代なのだけど、きちんとEP4から公開順に観たそうだ。私はEP3から見はじめて、ばらばらの順番で見たものだから、若干うらやましく思った。

 続三部作に関してはEP7の時点で違和感を覚えていたということだった。旧三部作のヒーローであるハン・ソロにたいしてしっかりした思い入れがあったため、その死を衝撃とともに受け止めたからだ。EP8のルークの人物像にたいする批判然り、このあたりは私はプリクエルに軸足がある身として実感しづらいところだ。

 D3adStockが「Rainy Day」をリリースした同日に、「Sunny Day」というタイトルで「幕張豊砂で降りちゃった ラップスタア」とラップできるTOKYO世界、まじでいい。

 SALUと曲作ってほしいな、と勝手なことを思っている。

 『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の話。サブタイトルを覚えられない。

 『アコライト』第7話でのウーキーのジェダイマスター・ケルナッカの大立ち回りについての所感。

 夢は基本的に凹む。

映画:『正午まひるなり』

 ATG作品。1978年の映画。丸山健二の同名の中篇が原作(NDLで読める)。1970年代の日本映画を見ようキャンペーンは細々と続いている。しかし、地方でくすぶる青年の懊悩とリビドーの発露を見るのは何回目だろう。

 たまたま通りかかった家の二階から女の声を耳にした主人公が、その前に停められていた大きな農業用の作業車を軽い身のこなしで登っていって、窓から部屋のようすを盗み見る場面。この一連の犯行が遠景のワンカットで撮られている。するするっと屋根の上に登っていく動きが記憶に残る。

 ゲームのシナリオだと「ゲーム内世界でもリバイバル的な再評価の動きがあるんだな」という印象だったので、その実態を知れてうれしい。何より、八雲なみの舞台袖でのあの表情。

 二軒目に向かう途中もコンビニで買った缶チューハイを飲むという徹底ぶりだった。帰宅後に水を飲むことに尽力したので二日酔いは回避できた。しかし、飲酒が健康に悪いことを実感した。控えめにしたほうが楽しいことがわかった。

小説:大江健三郎『二百年の子供』

 大江本人を思わせる作家の三人の子供が主人公の話。第十章の最後の場面というのは、父親の故郷を訪れた彼らが、オルガンを弾きながら「人生の計画」についてすこし話す場面。

 『二百年の子供』は、新聞連載がもとになった中篇小説。タイムトラベルという道具立てで、大江の作品に出てくる「谷間の村」での出来事や歴史がいくつか盛り込まれている。『芽むしり仔撃ち』や『美しいアナベル・リイ』など。

 なので、ほかの作品の理解の補助になる点で、大江健三郎入門にいいかもしれないと思った。ただ、作品自体の読み応えという点ではどうしてもほかの作品が上回るので、中級編かもしれない。

映画:『化け猫あんずちゃん』

 あんずちゃんだけが特別なイマジナリーフレンド的な存在なのかと思っていたら、貧乏神やかえるが出てきたのですこし安心した。かりんちゃんとの対関係でだけ意味をもつキャラクターではないことの安心感。
(むしろ、映画版オリジナルキャラクターのかりんちゃんの方が特殊な存在だ)

 ピーピーちゃんに連れられて洞窟に入ったらかえるが寝ている場面も、この世界には私とは無関係になんてでたらめなやつがいるんだ!と笑える幸福感がある。いうまでもなく、あんずちゃんが原チャリから降りる冒頭の場面から最後に至るまで、この映画はそういう笑いに満ちている。

 人生のなかで穴ぼこに落ちた人がいても、穴ぼこを横方向に掘りつづけている妖怪みたいな存在がいる。そいつはいざというときに役に立たないけれども、いてくれるに越したことはない。その心地よさ。

最近知った Pussy の意味
いじめしてる
お前 Pussy じゃん

 アメリカのスラングを知ったらすぐに使っちゃうことを正直に歌っている。日本語ラップとして、ほんとうにいいフックだ。

 柄谷本人の経歴にしたがって『探究』以降に進むと倫理的な説教と社会運動があり、それ以前に引き返すとなると極度に思弁的な仕事がある。そのどちらも関心がもてない。

 加えて『探究Ⅰ』がむずかしいのは、アナロジーが多用されている点にある。たとえば、マルクスとウィトゲンシュタインは「同じこと」をいっている、と柄谷はいう。いとうせいこうが既にいってそうなことだけど、これはラップに似ている。

 つまり、この単語とあの単語で韻を踏むんだ、スゲー!そんでパンチラインくらったわ!というラップの楽しい聴き方とまったく同じで、対象となる作品と他の文脈にアナロジーが見出されただけで論証なしに放たれる断言を読むことに、ある種の批評のスタイルの魅力がある。

 スパイダーマンNWHやザ・フラッシュと同じで、「マルチバース」と銘打ちながら、そこでやっていることは過去の作品の救済だ。私が劇場で見た20世紀FOXマーベルはジョシュ・トランク版の『ファンタスティック・フォー』と『ローガン』だけなので、私に向けた救済ではないな、という感想になる。

 安倍公房の小説をはじめて読んだ。

 感想ツイートを検索していて、「Dの場合」という印象的な一挿話の官能性が、「CFNM」というジャンルに分類できることを知った。そんなジャンルがあるんですね。

 監視の目が張り巡らされた管理社会とそこからの脱出、みたいな話だと記憶していたのだけど、生産と消費を至上目的にするあまり歪になった体制への皮肉という側面もあった。

 一人のアイドルの終わりを見せられると、しんみりしてしまうね。

シャニマス:「THE IDOLM@STER SHINY COLORS
LIVE FUN!! -Beyond the Blue sky- DAY1」

 冒頭から初期ユニットの怒涛の展開だった。あの寸劇がはじまって笑いが漏れて、ようやく息抜きできた。

 ストレイライトのパフォーマンスの途中でペンライトの電池が切れて、電池の交換に手間取ってしまい、素手で踊ることしかできない時間があった。素手は素手でたのしい。でも、ストレイで振れなかったことを悔しくと思っていたら、ラストで「Wondering Dream Chaser」。電池を入れ替えたペンライトを振って暴れました。

 個人的には、昨年の5thライブでいちばん食らった「Catch the Breeze」を一年越しにあらためて聞くことができたのがよかった。おれってノクチルと同時代を生きる若者だからサ……。

机のうえに置かれた『PERFECT DAYS』豪華版5枚組BOXの写真。大きさの比較のためにミニフィグが置かれている。

 豪華版のボックスを買いました。ふだん円盤を買わないので、買うならいちばん楽しいやつにしようと思って、お金を出しました。この前に買った円盤は『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』です。

下書き

『君たちはどう生きるか』のLINEスタンプ買っちゃった

 『君たちはどう生きるか』のなかでいちばん好きだったといってもいい、インコマンの登場シーン。空想の世界の王国がでてきても国民がこれだもんなあ、という苦さがある。

 批評家の秋山駿にとってドストエフスキー『白痴』は特別な作品なわけで、彼は黒澤明が撮った映画『白痴』をどう見たんだろうと疑問に思ってたけど、感想が書いてあった。

「わたしは、はるか五十年以上も前に黒澤監督『白痴』を観て、たいへん白けた。ドストエフスキイの原作から、こんな映画を発想した、というのが奇妙だった」
(『沈黙を聴く』、149頁)

 秋山駿はイッポリート強火担だから。黒澤版には余命間近の青年は出てこない。

AとBを検索したとき、どちらにも言及している投稿が出てくるとうれしい、みたいなうれしさがある。これは根源的なものなのか、メディア環境に依存したものなのか。

 同じ二つのものを見ている人が私以外にもいることを知っておきたい

 ロブ=グリエ『エデン、その後』を見ていて、後半の舞台となるチュニジアの町並みがどうしても『スター・ウォーズ』の惑星タトゥイーンにしか見えなくて、困った。

 植民地主義と商業主義の果て。

 それはいいとして、『快楽の漸進的横滑り』と同じく、オープニングがいちばん痺れる作品だった。けれど、独創性のあるイメージを追求するような映像が続くと、それを映画でやらなくてもよくないかという感想を覚える。先月、寺山修司の映画についていったような話だ。

見たもの

 『GOLDNRUSH PODCAST』のCharlu回。おばあちゃんとカラオケに行って、曲の背景を教えてもらったという話がよい。そして、それは本人が語るところの、新しい概念を植え付ける教育者としてのラッパー像に直接むすびつくものだと思う。ラッパーはブルースを湛えた教師であれかし。

 今月の分は終わり。


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