2023-12「ショーン・ベイカー監督、シャニマスの映画を撮ってみませんか?」

2024年になりましたが、昨年の記録をまとめます。


今月のツイート

映画:『白痴』

 夢の内容を忘れたので、『白痴』の感想だけ。ドストエフスキーの原作小説を、戦後の北海道の舞台に翻案している。

 前半、室内で人がセリフをいうだけの映像が続く。これだから小説原作の映画はいやだ、と思いながら見ていた。だけど、ミッドポイントでその退屈さは消し飛ぶ。主人公・亀田(ムイシュキン)が恋敵?である赤間(ロゴージン)に「あの女はくれてやる」といわれた衝撃から放心状態になり、冬の北海道の街を誰かに追われるように歩き回る姿がひたすら映される。雪の中を男が歩くショットの連続。こういう映像らしい映像が然るべきタイミングで出てくると、先ほどまでの文芸映画への不信はどこかに消えて、心が安らいでくる。

 このような瞬間は終盤にふたたび出てくる。亀田と婚約した綾子(アグラーヤ)、那須妙子(ナスターシャ)、亀田、赤間が一堂に会する場面。四人の顔がつぎつぎ映し出される。セリフなしの睨めつける四人の視線。原節子と三船敏郎の迫力。小説では表しえない緊張が表現されている。

 第13回OKB48総選挙の握手会に行ってきた。48本のボールペンをじっくり試し書きできるイベント。

 私がふだん使っているのは、uni-ball シグノDXの0.38mmという三菱鉛筆のボールペンだ。細い線が書けて、インクがぬるぬるしていないところを気に入っている。ただ、キャップ式なので外出先では使いづらいところがネックだった。

 なので、ノック式のボールペンでちょうどいいやつを見つけて帰ろう、という目的意識をもってこのイベントに臨んだ。その結果、uni ball ONE Fの0.38mmと出会うことができた。文句のない書き味、ボディもデザインと重みも絶妙。三菱鉛筆への信頼が揺るぎないものになった。ありがとう。

 ひさびさに公開を待ち望む映画体験をした。

 283プロってFGクルーなのかもしれない。

 『ゲゲゲの謎 鬼太郎誕生』、村に足を踏み入れる水木を祠?の内部から映すカットが鮮やかだったね。たった一つのカットで、この世ならざる存在の視点が劇中に導き入れられるから。

 この動画で原宿さんが買ってきたフィギュア。いいな、ゴルフのおじさん。

 生のマンスーンさんを見てきた(文学フリマ以来二回目) 今後書きたいエッセイについてのお話があり、その題材はぜひ読みたいなあと思った。

 ひとの心を自然に操るアイドルである羽那さんに、こちらの側から心に動きを与えることができたのかもしれない……という奇跡。過剰な神聖視から生まれたカッコつきの奇跡。

 鈴木羽那のWING編で思ったこと。アイドルという美しい人間は世界のことを美しいと思うかどうか。

 『東京物語』を映画館のスクリーンで見た。上映後には拍手が起きていた。

 この映画の忘れがたい場面のひとつに、原節子が自分のアパートの一室に、東山千栄子演じる義母を泊める場面がある。ここで原が血のつながりのない義母に対してやさしさを見せることが物語上で重要なシーンなのだが、スクリーンで見ると、まずその絵的な美しさに感動する。原は旅で疲れた義母の肩をもんでやるのだが、白い布団の上で白い寝間着を着た二人が部屋の照明で光かがやいているように映る。

小説:大江健三郎『取り替え子』

 大江健三郎『取り替え子チェンジリング』は、盟友・伊丹十三(吾良)との関係を中心に書かれている。後年の大江の小説は、大江自身の作家としての歩みや実際の家族の生活と重なるような独自の「私小説」の試みである、というふうにいわれている。

 もちろん、どれが事実でどれがフィクションであるかを逐一考える無粋な読み方はすまいと思って読むのだけど、そのような禁欲的な態度を揺るがしてくるような一頁がある。その頁には、かつて伊丹が撮った若き日の大江のポートレイトが印刷されている。頁の背の部分が薄く灰色になっていることから写真の存在自体は予感されていたのだけど、まさかこんな写真が小説に出てくるとは思ってもいなかった。

 以下は、吾良の言葉。

 ──おれは動く写真の仕事で生きてゆくことになると思うけれど、きみはカメラより万年筆で仕事をするんだろうから、むしろ文章を作って覚えておいてくれ、と断った。

講談社文庫、310頁

 作中の吾良との記憶と、カメラが映した「現実」とが最も接近した瞬間。

シャニマス:YMLLをすこし再考

 正しくは第6話ですね。

 アルストロメリアのイベコミュ『YOUR/MY Love letter』のクライマックスは、複数の非人称的な風景と複数の固有名から構成される。風景の背景素材の連続は、アルストロメリアによるラジオを通じた呼びかけの遍在性を映像的に表現している。そして、呼びかけられた各所でタイプ名で語られた個人の固有名が回復される。

 ここでいかなる力学がはたらいているのか、とずっと疑問に思っている。実装直後の感想記事でも、風景の連続については書いたつもりだけど、固有名の回復の感動の内容を書くことはできなかった。

 街ゆく人々の名前をすべて知ることは論理的にありえても現実にはありえないことだと私たちは考えている。固有名の認識不可能性の事実がある。しかし、ひとりひとりが固有の名前をもっていることもまた事実であると私たちは信じている。もう片方で、固有名の存在の事実がある。

 YMLLの第6話は、物語の力で「すべての人に名前がある」という後者の事実を浮かび上がらせた。もちろん、徳丸銀之介/コンビニ店員が大崎甘奈/高校生の名前を知らないことが描かれるように、前者の事実を克服したり否定しようとしたわけではない。だがストーリー上の力点は、やはり固有名の存在の事実のほうに置かれている。

 この世に存在する人間のほとんどが固有名をもっている事実を考えることは、私だけでなく各人もまた「私」である「事実」について考えるときと似たおどろきをもっている。ただし、「私の事実」は、いくらそれが感動的であるからといって言葉でいうことはできない。しかし、固有名の事実はそれが名であるから当然のことではあるけれど、言葉でいい表すことができてしまう。

 ウルトラマンブレーザー。ドラマパートも特撮パートも面白いです。

 この集まりは、たまたま各人のスマブラの上手さが同じくらいだったという条件があってはじめて成立している。プリンを使いすぎて上達したり、キング・クルールがあまりにも神経を逆撫でするようなプレイスタイルであったり、バランスを崩す要因もあることにはある。その崩壊も受け止めて味わえたらいいね。

映画:『PERFECT DAYS』

 土砂降りのなか、大きなレインコートを着て自転車を漕いでいる平山(役所広司)と、その奥に雨雲で先端が隠れた東京スカイツリーと高層マンションがそびえる遠景のショット。それはロマン主義の絵画を彷彿とさせた。私は、ここ最近、東京の都心部に林立する巨大な建造物を見上げるたびに、どこか自分の気力を衰弱させられてきた。この都市での体験はいったい何なのか。先のロマン主義の絵画のようなショットは、私の疑問を解消してくれた。なるほど、私は都会の巨大建築を「山」に見立ててロマン主義気分に浸っていたのだった。

 この映画には東京スカイツリーがくりかえし画面に登場する。ヴィム・ヴェンダース監督自身は、東京スカイツリーもまた木(ツリー)なのだといっている(『キネマ旬報』24年1月号、22頁)。けれど、当然のことながら、それは普通の木々とはちがう存在である。

 平山は、車を運転するときも自転車に乗るときも東京スカイツリーを見上げてその存在を気にかけている。たしかにこれは、彼が「ともだちの木」をはじめとする樹木にたいする接し方と同じである。だが、東京スカイツリーは、平山の生活にまなざしを注ぐ天使的な存在を果たす。終盤、平山と友山(三浦友和)は川を前にして並ぶ。日はとっくに落ちている。そこでライトアップされた東京スカイツリーが太陽の代わりに二人を照らし、彼らの表情に色を与える。東京スカイツリーもまた一本の木であるのだが、それは木それ自体が光を放つ、いささかな特殊な木である。

 東京スカイツリーが印象的に登場する場面はもう一つある。後半、作品の視点人物が平山から姪・ニコ(中野有紗)へと移る場面が何度か出てくる。たとえば、ニコは、トイレを掃除する平山の背中を見て、スマートフォンで動画に納める。このときはじめて観客は、他の人の目をとおして平山を見ることになる。

 ヴェンダースはインタビューで「主観ショット」の編集方法について語っている。たとえば、平山が木漏れ日を見るとき、最初に平山が上を見上げる動作が映り、次に木々と葉の映像が差しはさまれ、そしてほほえむ平山のクロースアップが映る。すると、真ん中の木々と葉の映像は平山の視界をあらわした映像として理解される。ヴェンダースの言葉を借りれば、このとき観客は平山にされる。観客は平山と同じしかたで木漏れ日を眺めることになる。

 ただし、この作品において私たちは平山になるだけではなく、ニコにもなる。このことが示される場面で、東京スカイツリーが現れる。ニコは、仕事場に連れて行ってもらうために、平山が運転する車の助手席に座っている。すると、フロントガラスから外を見上げて、「あれがスカイツリー?」とたずねる。このとき東京スカイツリーの映像が差しはさまれる。これは、冒頭で平山がおこなった車窓からスカイツリーを見上げる動作と主観ショットの反復であり、ニコが視点人物に加わったことを示す場面でもある。

 ニコは反復する。それは一時的な滞在のあいだ平山の生活にならうだけではない。終盤、彼女は、子を気にかけてやまない母親(麻生祐未)に引き渡され、その別れ際に平山にハグをする。これらは、映画の前半にすでに登場していた動作をくりかえしている。公園のトイレで見つけた迷子の子どもを母親に奪い返されるように引き渡す挿話。さらにいえば、このときの母親の平山にたいする蔑みがにじむ態度もくりかえされる。そして、クライマックスのハグも、すでにタカシ(柄本時生)からのハグが描かれている。監督は平山が妹にハグをする場面を物語的にすぎる行動でないかと危ぶんでいた。それゆえか、前半に金を無心する若者による軽率なハグがおかれていることによって、終盤のハグは劇的な飛躍でありつつ作品全体のくりかえしの構造に埋め込まれている。

 平山がこの世界で存在するうえで重要なのは、ルーティン化された生活様式やささやかな文化的な活動よりも、日々のなかで出会う「木漏れ日」である。この映画でもっとも驚かされるのは、トイレでの清掃作業中、ふと白い壁に木漏れ日ができているのをみて、うれしくてたまらずに微笑む平山である。この映画が伝えているのは、彼の質素でいながら豊かな暮らしぶりのみならず、このぎりぎりの生存の仕方でもある。彼はたったの木漏れ日から自己の存在の肯定を汲みだしている。

 パンフレットにも収録されている対談のなかで、小説家・川上未映子はこの映画を見た者にとって興味深く、かつ首肯せざるをえない、いくつかの指摘をしている。その一つは平山の生活が「選択的没落貴族」的なものであることだ。それと同時に、川上は、ラストの「Feeling Good」にのせた役所広司の長回しの場面を「ニーチェ的な邂逅」と評している。人生の終わりが予感される会話を友山交わした夜の川辺での記憶が残ったまま、また新たな一日を迎える平山。

 もちろん、この場面の平山は、カンヌ国際映画祭で男優賞を獲得した役所広司の名演である。しかし、私は最初にこの場面を見たとき、平山がただ単に音楽を聴きながら陶酔しているだけの男に見えた。もちろん私なりに「Feeling Good」の歌詞を噛みしめながら平山の実存の僥倖のようなものを感じとりはしたのだけど。

 最後の突き抜けたかのような一瞬もまた反復に埋め込まれている。前半、アヤ(アオイヤマダ)が、盗んだパティ・スミスのカセットテープを返すついでに車内で改めて聞き直す場面。そこで彼女は涙ぐむ。彼女の素性をしらない平山と私たちは、なぜ彼女がここまでこの曲に陶酔しているかわからず、戸惑う。これと似た困惑を私は最後の平山のすがたにも覚えたのだ。

 「Redondo Beach」を聴き終えたアヤは去り際に平山の頬にキスをする。これもまた平山の生活のなかで突出する一瞬であったようで、平山はうろたえはしたものの年甲斐もなくというべきかこの出来事を噛みしめるように、ルー・リードの「PERFECT DAY」に酔いしれる。音楽への陶酔から完璧な一日へ、というプロセス。かりにそれがくり返されるのであれば、平山が「Feeling Good」に陶酔したあとには平山からの口づけが待っているはずではないだろうか。しかし、口づけはくりかえされない。はたして、平山と私たちは永劫回帰する「PERFECT DAYS」に到達したのだろうか。最後に示されるのは、それぞれいちどきりであり、かつ、かさなりあって影をつくる「木漏れ日」がこの世界に存在することの事実だけだ。

 ただ音楽に陶酔しているだけでもある。世界に存在することの僥倖と憂愁を体現してもいる。私が二回目にこの映画を鑑賞したときに見たのは、ふたつの存在のしかたが重なりあって揺れうごく平山のすがたである。やはり『PERFECT DAYS』は、半ば選択的に慎ましい生活をしている余裕のある男の話でもあり、木漏れ日に自己の存在を助けられているぎりぎりの男の話でもある。

 今年のクリスマスはインフルエンザで寝込んでいました。発熱がひどかったけど、処方されたカロナールを飲んでなんとかなりました。

 秋山駿の著作を昨年の秋から読み進めている。第三巻に収録されている小説論については正直ぴんとこないのだが。

 この動画の話。

シャニマス:【Eyes On You】鈴木羽那

 鈴木羽那のことを知りたくて引きました。

 羽那さんとプロデューサーのやりとりを見ているとぞくぞくする。三峰さんが「これはロールプレイである」というエクスキューズを一枚噛ませたうえで行うようなやりとりを、羽那さんの場合は直(じか)でやってのけている。魅惑の棍棒をぶん回している。恐ろしすぎる。

 『逆転のトライアングル』には、『ザ・メニュー』はこういうことをしたかったんだな、という納得感があった。比べると、社会を皮肉るにも巧拙があることに気がつく。しかし皮肉の巧拙なる社会的な尺度こそ皮肉るべきものじゃないかしら。

 『レッド・ロケット』、鑑賞後にロケーションや人物たちを思い出すときの記憶が劇映画や役者を見た感じじゃない。粒度の粗いフィルムやビビッドな色づかいなど、画面のルックとしては幻想的な瞬間がたびたびある。その美しさは現実から遊離している。でも、映画を見た体感としては、アメリカの片田舎の出来事をありのまま見届けたかのような記憶が残る。ただならない作品だったかもしれない。

 A24(制作会社)、ショーン・ベイカー監督、シャニマスの映画を撮ってみませんか?

 事務シャニの番外編のなかのセリフ、「神様に見せてやんだよ、私たちのこと」、の感想。

 シャニソンの新衣装。私がもっとも好きな髪形は、『いちご100%』でいうと高一のときの西野つかさです。

 私のシャニマスとの向き合い方が変化している。自分の欲望を投影するという割合が増えてきた。それほどシャニマスらしからぬこともないと分かってはいる。だが、三、四年のあいだコンテンツに触れているとなると、こういう時期も訪れる。時期ごとに変化があることも楽しみ方の一つだろう。

映画:2023年のベスト

 『PERFECT DAYS』の感想は上にある通り。年明けに二回目を見た。

 感想に書かなかったたことをここで書いておく。大資本が清貧な暮らしを非・現実的に描くこと云々は、川上未映子の発言の言及を除いて、あまり触れていない。私の感想は、実存の現実に目を向けた作品としての感想だと思ってほしい。

 たしかに鑑賞直前にポスターのコピーが目に入って、作品の見方を一元的にする文言に違和感を覚えた。似たことはヴェンダース自身もいっているのだけれど、この素朴さに対しても「おや」と思う。でも、それを倫理的に批判するならば、こうした作品にかぎっていえば、ひとりの人間が存在することについての心配りがあってほしいというのが、私の倫理的なわがままなのです。

 あとは、平山と友山がふたりとも煙草を吸ってむせるシーンがおかしくてたまらない好きなシーンだということも伝えておきたい。

 『アクロス・ザ・スパイダーバース』、映像の凄さは当然として、ロード&ミラーの十八番の親子の話にも変化や発展が見られてファンとして嬉しくなる作品。その点でも続編が楽しみ。

 『ミュータント・タートルズ』、アニメとしても青春映画としても大満足。それに幼少期のタートルズのかわいさの衝撃ったらない。幸せな気もちになる映画だった。

 フェミニズム映画では話題作『バービー』が、渋みある寓話ふうのお話では『イニシェリン島の精霊』があったけれど、『ウーマン・トーキング』が私は好きでした。

 『ザ・クリエイター』は、潜伏→爆破→逃亡をひたすら繰り返すミニマムなストーリーテリングに訴えかけられるところがあった。それは、想像上の戦争の恐怖という2023年の気分と響き合った気がしたから。

今月の下書き

 中学の国語の授業で「邯鄲の夢」の話を聞いたとき、「たしかにこの世界の現実は夢でもありえるな」というふうに理解した。けれども、あれは単なる挿話、あるいはせいぜい人生についての道徳的な訓話として紹介されたのであって、私のように世界がいかにして存在するかの説明の一例として理解するのは意図していなかったのだろう。

 存在論的位相と倫理的位相の逆接の問題。ふつうは「ひとりの人生ほど長くて連続性のある夢はありえない」という感想を抱く。しかし、時間や記憶にたいする感覚が奇妙なあり方をしていると、このような取り違えが起こりえる。

 ネットに落ちている昔の放送の録音を聴いている。15年くらい前の放送がアップされている。いわば「推し」のキャリアを追うための推し活の一環だ。しかし、こうして過去への遡行によって同時代から退却することは「推し活」としてはあまり表現されない。

 若いアイドルだと、遡るべき過去がないからというごく単純な理由があるけれども。

 変だけどおっきな人ばかりでなく変だけどちっちゃな人もいるのであって、一応わたしたちの世界の基本的な理解としてそのどちらも等しく存在するということになっている。この事実と取り決めにもうすこし安心して身を委ねることができるとよいのかもしれない。

 しかしそれらに私が身を委ねるとは、私にとってどういうことなのか、はまったく不明で、不安だ。

 毎朝、自己という基体の隅々に昨日までの生活のあれこれを思い出すように染み渡らせてから起き上がらなきゃいけない。

 朝起きることが大変。

 先月のぶんは終わりです。


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