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シナリオイベント「YOUR/MY Love letter」の感想

 「甜花ちゃん時計」が「ぴ、ぴ、ぴ、ぴーん」と時報を鳴らすとき、画面がつぎつぎと変わっていくつもの風景が映し出される。学校、公園、町の風景、そこにいる人々を描くフラットなまなざし、俯瞰的な視点。このコミュの特徴はまずそう表される。

 視点は俯瞰的だか、一方で語られることはごく私的なものだったのも特徴だった。登場人物たちの内面の独白に胸をうたれた。言葉にしないことによって届く想いについて葛藤する「ピアスの女性」の、「言葉にしない心情」のほうにこのコミュは寄り添う。「先生らしくいる先生」でなく「私」に、「年配の男性」でなく「自己愛」になりかねない千雪さんへの愛情の芽生えに。

このコミュにおける「人の内面の話」という側面を集約しているのが「unknown」ではないか。社会においていかなる問題のもとにあり・いかなる名前をもつか不明な、人物以前であるようなただ内面だけの存在として描かれいていると思うのだが、どうだろう。

 さて、このような人物たちにまざって、アイドルたちもそのなかの一人として描かれる。甜花さんが「17歳 高校生 アイドル」という文字とともに出てくるところは「このコミュはアイドルへのまなざしもあくまでフラットなのか!」と驚かされた。「いや、当然だよね、シャニマスだもんな」と訳知り顔で思い直したとしても、これだけでもう十分感動している。(また、ピアスの女性や高校教師の出番の分すくない登場時間でアイドルたちの感情を知ることができるのは、その葛藤がLPなどの延長として理解できるからこそだろうと思う)

 アイドルまでもフラットに描く視点は、しかしEDではプロデューサーの言葉によって少しくずれる。アルストロメリアの三人を「"名もなき人たち"の想いを届ける架け橋」とみなして、ある種 特別な立場におく視点がしめされる。ただこの特別視は、まず劇中のレベルでいえばプロデューサーの職務ゆえのことだし、メタのレベルでいえばシャニマス全体の物語の条件でありプレイヤーたる私も強くもとめざるをえない視点だという点から理解できるし必要とされる。

 だけど、それでもなお、とシャニマスのフラットさが徹底されているのがラストのコンビニのシーンだと思った。コンビニ店員・徳丸さんが名前のわからない「高校生くらいの子」にアメリカンドッグを売ることは、つまり先ほどまで"架け橋"だった二人の「想い」のやりとりで実際にやりとりされるアイテムを(機転を利かせてまで)用意するというまた別の"架け橋"的な行いにほかならない。徳丸さんも"架け橋"だという視点を示すことで、"架け橋"と"名もなき人たち"の関係が反転することが描かれている。

 ここにシャニマスのつつしみ深さを感じる。"架け橋"と"名もなき人たち"の視点の選択は恣意的なものであって、"架け橋"としてアイドルを描く「シャニマス」もあくまで恣意的な選択にもとづくものであるという自覚……。また、互いに名前を知らない者同士のやりとりを描くことで、人々の名前が回復するさま(第6話)が感動的だとしてもそれだけじゃないという視点を最後に置いておく丁寧さ……(名前を知られないことの意味をサポコミュでよりはっきり描いている)

 いろいろと書きましたが、しかしこの「YOUR/MY Love letter」の肝心要の部分は第6話の「名前の回復」のシーンとその感動にあると思う。正直、読んでいる最中はここでプロデューサーの名前を公開というか書き加えてもいいんじゃないかと思ったほどだった。だけど個人の固有名の物語にこれほどまで引きつけられるなのはなぜだろう、とその感動を括弧に入れてみたとき、それはすごく大変な問題に行き当たると思った。実装直後ということで、その点を避けたこういう形の感想を書きました。

 

 


 

 

 

 

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