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映画『PERFECT DAYS』の感想、存在への心配り


東京スカイツリーの存在

 印象にのこったショットの話からはじめよう。土砂降りのなか、大きなレインコートを着て自転車を漕いでいる平山(役所広司)。その奥には、雨雲で先端が隠れた東京スカイツリーと高層マンションがそびえる。この遠景のショットはロマン主義の絵画を彷彿とさせた。

 私は、ここ最近、東京に林立する巨大なビルを見上げるたびに、どこか衰弱させられる気分だった。立ち並ぶビルはこの私の存在を拒否している、という不快感があった。この都市特有の体験はいったい何なのか。そして、先の遠景のショットを見て、私の疑問は解消した。なるほど、私は都会の巨大建築を「山」に見立ててロマン主義的な気分に浸っていたのだった。

 東京スカイツリーはこの映画のなかで何度も姿をみせる。ヴィム・ヴェンダース監督は、東京スカイツリーもまたツリーなのだといっている(『キネマ旬報』24年1月号、22頁)。平山は、車を運転するときも自転車に乗るときも、東京スカイツリーを見上げてその存在を気にかけている。たしかにこれは、彼が「ともだちの木」をはじめとする樹木にたいする接し方と同じである。けれど、当然のことながら、東京スカイツリーは普通の木々とはちがう存在である。

 東京スカイツリーは、平山の生活にまなざしを注ぐ。いわば、天使的な役割を果たす存在である。終盤、平山と友山(三浦友和)は川を前にして並ぶ。日はとっくに落ちていて、ライトアップされた東京スカイツリーが太陽の代わりに二人を照らし、彼らの表情に色を与える。東京スカイツリーもまた一本の木であるのだが、それは木それ自体が光を放つ、いささかな特殊な木なのである。

ニコの動作

 東京スカイツリーが登場する印象的な場面はもう一つある。後半の一部では、視点人物が平山から姪・ニコ(中野有紗)へと変わる。たとえば、ニコは、トイレを掃除する平山の背中を見て、スマートフォンで動画におさめていた。観客が他人の目をとおして平山を見ることになるのは、このときがはじめてである。

 ヴェンダースはインタビューで「主観ショット」の編集について語っている。たとえば、平山が木漏れ日を見るとき、最初に平山が上を見上げる動作が映り、次に木々と葉の映像が差しはさまれ、そしてほほえむ平山のクロースアップが映る。すると、真ん中の木々と葉の映像は、平山の視界をあらわした映像として理解される。

 ヴェンダースの言葉を借りれば、これは「観客を平山にする」映像編集の技術である。観客は、平山と同じしかたで木漏れ日を眺めることになる。

 ただし、先に述べたように、私たちは平山になるだけではなく、ニコにもなる。つまり、ニコの主観をとおして世界を眺めるのであり、このことを示す場面で東京スカイツリーが登場する。ニコは、仕事場に連れて行ってもらうために、平山が運転する車の助手席に座っている。すると、フロントガラスから外を見上げて、「あれがスカイツリー?」とたずねる。このとき東京スカイツリーのショットが差しはさまれる。ここではじめてニコが視点人物に加わったことが示される。そして、これは冒頭で平山がおこなった車窓からスカイツリーを見上げる動作と主観ショットの反復でもある。

 ニコは反復する。一時的な滞在のあいだ、平山の質素な生活をならうだけではない。終盤のドラマチックな場面も反復のひとつにすぎないのだ。

 ニコは、彼女を気にかけてやまない母親(麻生祐未)に引き渡され、その別れ際に平山にハグをする。この一連のなりゆきは、映画の前半にすでに登場していた動作をくりかえしている。それはまず、公園のトイレで見つけた迷子の子どもを母親に引き渡す挿話のくりかえしであり、このときの母親の平山の職業にたいする蔑みがにじむ態度もくりかえされる。

 そして、クライマックスのハグに関しても、タカシ(柄本時生)からのハグが先んじて描かれている。監督は平山が妹にハグをする場面を物語的すぎる行動でないかと危ぶんでいた。それゆえか、前半に金を無心するタカシによる軽率なハグをおいておいたのであろう。このことによって、終盤のハグはドラマチックな飛躍でありつつ、作品全体のくりかえしの構造に埋め込まれているルーティンの一部になっている。

平山の生活と存在

 平山がこの世界で存在するうえで根本的に重要なのは、ルーティン化された生活様式やささやかな文化的な活動よりも、日々のなかで出会う「木漏れ日」である。

 平山は生活者でありつつ、存在者である。この映画が伝えるものは、彼の質素でいながら豊かにみえる暮らしぶりのみならず、平山というひとりの男のぎりぎりの生存の仕方でもある。私がもっとも驚かされたのは、トイレでの清掃作業中、ふと白い壁に木漏れ日ができているのをみて、うれしくてたまらずに微笑む平山である。彼はたったの木漏れ日から自己の存在の肯定を汲みだしているのだ。

 パンフレットにも収録されている対談のなかで、小説家・川上未映子はこの映画を見た者にとって興味深く、かつ首肯せざるをえない、いくつかの指摘をしている。その一つは平山の〝理想的な〟生活が「選択的没落貴族」的なものであることだ。

 それと同時に、川上は、ラストの「Feeling Good」にのせた役所広司の長回しの場面を「ニーチェ的な邂逅」と評している。これもまた重要な見方である。あのときの平山の脳裏には、夜の川辺で友山と交わした人生の終わりが予感される会話の記憶が残ったままであるはずだ。

 終わりとともに、また新たな一日を迎える。ニーナ・シモン「Feeling Good」の歌詞を噛みしめながら、平山の実存の僥倖が表現される、決定的に重要な場面である。いうまでもなく、カンヌ国際映画祭で男優賞を獲得した役所広司の名演である。しかし、私は最初にこの場面を見たとき、平山がただ単に音楽を聴きながら陶酔しているだけの男に見えた。

 最後の突き抜けたかのような一瞬もまた反復に埋め込まれている。前半、アヤ(アオイヤマダ)が、盗んだパティ・スミスのカセットテープを返すついでに車内で改めて聞き直す場面。そこで彼女は涙ぐむ。彼女の素性をしらない平山と私たちは、なぜ彼女がここまでこの曲に陶酔しているかわからず、戸惑う。これと似た困惑を、私は最後の平山のすがたにも覚えたのだ。

 ところで、「Redondo Beach」を聴き終えたアヤは去り際に平山の頬にキスをする。これもまた平山の生活のなかで突出する一瞬であったようで、平山はうろたえはしたものの、年甲斐もなくというべきかこの出来事を噛みしめるようにルー・リードの「PERFECT DAY」に酔いしれる。音楽への陶酔から完璧な一日へ、というプロセス。かりにそれがくり返されるのであれば、平山が「Feeling Good」に陶酔する様子を見届けたあとの私たちには、平山からの口づけが待っているはずではないだろうか。

 しかし、口づけはくりかえされない。はたして、平山と私たちは永劫回帰する「PERFECT DAYS」に到達したのだろうか。最後に示されるのは、それぞれいちどきりであり、かつ、かさなりあって影をつくる「木漏れ日」がこの世界に存在することの事実だけだ。

 ただ出勤中に音楽を聴いて酔いしれているだけでもある。世界に存在することの比類なき僥倖と憂愁を体現してもいる。この映画を二度目に鑑賞したとき、私が見たのは、ふたつの存在のしかたが重なりあって揺れうごく平山のすがたである。やはり『PERFECT DAYS』は、半ば選択的に慎ましい生活をしている余裕のある男の話でもあり、木漏れ日に自己の存在を助けられているぎりぎりの男の話でもある。


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