2023-08「水着がかわいいからほしかったんです」



今月のツイート

小説:犯罪(※性犯罪の話題を含む)

 このツイートは川上未映子の作品にたいする感想というより、八月初めの私の心境についての報告という性格が強い。このときの私は生活上の焦燥感に苛まれていた。そんな状態で『黄色い家』を読んで、貧困と生活能力の乏しさから犯罪をおこなう登場人物たちの境遇が他人事とは思えなかった。もちろん、私の実際の経済状況やもとの性向を冷静に顧みればこの状況把握は見当違いとわかるのだけれど。

 『黄色い家』を読み進めるのと同時に秋山駿「内部の人間の犯罪」を読んでいた。小松川殺人事件(1958年)についての評論である。事件の犯人である李珍宇は「体験が夢のように感じられること」を自身の問題として語るのだが、秋山はそのような現実=外部を失った状態にある存在を「内部の人間」と言い表す。秋山は他の評論では「なぜ私が告白するのか」というかたちで、内部の人間という観点から発話行為全体に疑問を付していた。すなわち、内部にあるものをわざわざ言葉にして外に置きなおす理由とは何か。これと同じことが殺人についてもいえる。内部から外部へという問題設定からすれば、言葉を話すことも犯罪をおかすことも同じものとして並べることができてしまう。秋山の「殺人考」という別の論考の副題に「それはもっとも簡単な行為である」とあるように、「内部の人間」において一般に殺人につきまとう特有の意味が失われてしまう。もはや殺人固有の意味が失効している地点において、秋山による李への道義的非難は易きにながれるべきではなかった、というかたちをとる。他人に害をなし命を奪ったことに対する非難というよりも、もっと自らの内部を見つめるべきだった、というストイシズムの様相を呈する説教である。

 ところで大江健三郎も小松川殺人事件から取材して『叫び声』という小説のなかで青年の殺人者を書いた。主人公と同じ家で「共同生活」をともにする在日朝鮮人の呉鷹男という青年が登場する。彼は共同生活が解消されたあと、孤独のうちに自らを「怪物」と規定して、その証明として女子生徒を殺害する(第四章)。文芸評論家の井口時男は『少年殺人者考』で、小松川殺人事件を取り上げた文学者としてやはり秋山駿の評論・大江健三郎の小説の両者を取り上げており、井口は両者の違いを指摘している。秋山は、李の両親の経済的な貧窮あるいは在日コリアンであるがゆえの差別という出自に着目せず、抽象的な人間の内面の問題として論じた。これにたいして、大江は「呉燦オチヤン」という朝鮮名を通じて自身のオーセンティシティを確認するに至るまでを描いている。

 井口の考察の力点は両者の対比ではなく、李の「異邦人」性が、秋山のいう「内部の人間」、大江のいう「怪物」として語られていること、両者がともにそれを描き出したことに置かれている。しかしまた別の共通点を取り出してみたいと思う。それは性について、具体的に言えば自慰行為について。この共通点から出発すると、今度は反対に秋山と大江の相違点が見つかるはずだ。

 大江の『叫び声』において鷹男は「オナニイの魔」として登場する。しかし共同生活を終えた彼は、自慰は共同生活でこそ有効だったのだと気がつく。そして別の「不満の解消法」を見つけざるをえなくなる。それは強姦殺人であった。これを実行に移す直前には、おのれの存在の証明というまでの理由づけが鷹男のなかでなされている。「まったく、おれが礫をなげても、なにひとつこの世界にその結果があらわれないのだから、おれはこの世界に存在していないのとおなじだ。[…]俺が存在していると主張するためには[…]、もっと確実な方法で神の眼をかすめて、この世界にものすごい結果をひきおこしてやるほかない」(155頁)。しかし殺人を犯した後ではマスコミへのアピールが鷹男の関心を占めることになる。鷹男は自分が行った犯罪が夢のうちに消えてしまわぬようにするために観衆を必要としていたのだ。鷹男の「怪物」としてのナルシシズムの全能感が相対化されざるをえないものであることを描いたこと。井口はここに李の犯行後に陥った苦境にたいする大江の批評眼を見て取る。

 『叫び声』第四章における鷹男の精神は自慰から端を発してナルシシズムの不能によって終わる旅路であり動的なものである。これは秋山が李の犯行をはじめから終わりまで想像力の模写に類するものと見たのと対照をなす。ただ実行に移すその一瞬にのみ現実の活動をおこなうのであって、想像を育む内部はごく静的である。この想像力について、李自身が自慰行為を例に用いて説明している。以下は孫引き。

「それで私達は見なれた女優の水着写真を想像によって補っていくだろう。私達は彼女を自分の頭の中に印象づけて想像を働かす。彼女は着物を脱ぐだろう、そして裸になって横たわるだろう、その時私は彼女の顔を写真で見る。それは顔がより人格的な意味を表しているからであり、この場合『顔』を見ることによって視覚は想像に錯覚を起こさせるのだ。『彼女は今現に私と抱き合っている!』と思わせるためのこの錯覚!」

『秋山駿批評Ⅰ』、136頁

これに対して秋山は「自慰行為とはうまいものをみつけたものだ。たしかに、これは、想像に始まり想像に終わる行為のあいだに、もっとも強烈で刺激的な現実の行為が相対的におこなわれる、その特徴的な場合である」(同)という。いくら内部の想像力といってもそれは現に行われた凶行である。

 夢のような行為から一歩ふみ出す。あいまいな夢の世界に忍耐し切れなくなったために、とにかく一歩をふみ出す。その動力となるものが、思考の作用であるか、自慰行為の発展であるか、それはどうでもいい。この一歩が兇行となってあらわれる。

同、146頁

私がここでむしろ興味を引かれるのは、やはり発語と殺人についていったことと同様に、「思考の作用」と「自慰行為の発展」との相違が無効になった地点に立っている人間というものの存在のしかたについてである。前者を尊ぶ人からすれば、これは後者の効力にたいする買い被りがすぎるというものだろうけれども。しかし、人間がこのような仕方で存在する可能性を有することはたしかなことなのだ。

秋山駿「内部の人間の犯罪」は国会図書館デジタルコレクションで読むことができる)


これらは今月初めの焦燥感に苦しめられているなかで気づいた事実たち。社会を生き延びるために必要なものが人気。

 そもそもこれは「襟」という認識であっているのかな。いや、襟だよな、多分。

 次に襟が大きくなるアイドルは誰かな。順当にいけば甜花さんがアツいかな。でも三峰さんが大きいフリルの襟のついた甘めな衣装を着ているのも見たいな……。オタクの欲望すぎるか。もう大きな襟のトレンドは終わっていて、真乃さんが最後ということになったら悲しい。

 「サングラスかけるかけない六分半」の話しか事前知識にない状態で見た。見終わった今、「サングラスかけるかけない六分半」のところしか覚えていない。鑑賞前と鑑賞後で脳内の『ゼイリブ』についての情報量の値に変化は起きなかった。

 あ、浅倉透さんのコミュのモチーフになりそうとは思ったんだ。情報量プラス1ですね。

まだ後半読んでない。

音楽:ラップのリリックと提言

 すでにある言葉をリリックのなかでフレッシュに聞かせること。大きくいえば、詩作をすることの意義のいくつかあるもののうちの一つはここにあるのだろう。

 次も関連するツイート。

 ラップという歌唱法だけでなくヒップホップ的な要素を感じさせるとなると、自分の名前を名乗りあげる「自己紹介ラップ」的要素はどこかで必要なんですね。あるいは何かをレペゼンするとかしてその地名やクルー名の旗を掲げる必要がある……。

 これはすべてシャニマス楽曲のラップパートについてのコメントです。次にラップパートを設けるときは、歌詞に自分の名前やユニット名、「283プロ」といった固有名詞を入れてみてください。どうぞよろしくお願いします。

 制作陣はそのような(私が解する限りでの)ヒップホップの文化の精神性は承知の上で、より広いリスナーを獲得するためにそのローカルな要素をオミットしている、とも考えられる。こういう判断に対して、「それはラップという歌唱法を用意した文化、そのルーツを抹消している。この行いは問題含みだ」といい返すこともできる。文化盗用批判と同じふうに。

 ただ、ラップパートがいささか軽薄で仮に問題含みであったとしても何か肯定的なものへと昇華させてみせる・させてしまう存在がアイドルである、それもそれでまた紛うことない一つの文化を形成しているのだ……。こういうことを考えないでもない。そして私はそちらにも抗えない。

 かくして私はありきたりな文化相対主義に落ち着いてしまっているわけです。


 おにぎりのラインナップ、すごすぎる。しかも全国展開している。誰がこれを望んだのか。私か? 私が望んだのか?

 耐えられない暑さと大雨が続いてますね。夏の気候の美点はでっかい雲しか残っていない。

 もう多くは語りません。すでに語りつくされているので。

フィナンシェに似たお菓子。アーモンドの香りがよい。

妄想。この並びに軽音楽部を出さないあたりの学級的政治性。

【カラーズキャッチ!】小宮果穂の感想と、『イノセンツ』の感想。

映画:『ビルマの竪琴』

 終盤、仏僧になった水島を見て、かつての部隊の仲間の一人が思わず抱えていた靴から手を放してしまい、しかし靴紐をもっていたために地面に落ちはせずすかさず持ち直すカットがある。あれは名カットだと思うのだけど、1985年版でも残っているだろうか。

 このあと、水島が別れの曲として「仰げば尊し」を演奏するのだが、うっかり感動しそうになる。もちろん「今こそ別れめ いざさらば」という歌詞とドラマの共鳴があってこそなのだが、単に聞きなじみのある旋律だからというだけで琴線に触れかねない。学校教育の成果。

 序盤の「埴生の宿」を歌う場面の画作りは文句なしに見事でした。水島の竪琴に合わせて「埴生の宿」を歌っていると、向こうから敵兵が英語で歌い返してくるのが聴こえてくる。灯りを消した家屋のなかで同じ方向を向いてずらっと並んで身をひそめる日本兵たち。外から月明かりが漏れて影が伸びるのが美しかったね。


ここで皮膚科の待合室にいてほしいシャニマスアイドルを発表……

大崎甜花さん(生活習慣・食生活の乱れによる症状)

ちょっとあんまりか。甘奈さんの完璧な管理によって甜花さんはお肌のトラブルと無縁かもしれないしな。

こういう結論になりました。チョコをたくさん食べている智代子さんとかも人一倍手入れしてるのだろう。

朝は暗く落ち込み、昼は一人で図書館にいる心地よさを味わい、晩は遅くまで楽しく通話した。

映画・小説:『青春の殺人者』・「蛇淫」(※性犯罪の話題を含む)

『太陽を盗んだ男』の長谷川和彦監督のもう一つの監督作品。『ベルリン・天使の詩』をきっかけに他のヴェンダース作品を見たように、冗談じゃなく浅倉透さんに映画を教えてもらっています。

 この映画は中上健次の短編小説の「蛇淫」という作品が原作になっている。このことは見ている最中に知った。自宅だと集中力が散漫で、映画の鑑賞中にその当の映画の情報を調べる習慣がついてしまっているのだ。冒頭にも長々書いたように、ちょうど犯罪を描いた文学作品が気になっていたところなので原作が収録されている全集を図書館で借りて読んだ。主人公の男が両親を殺害したのちに幼馴染の女とともに殺害現場である家を出る、という話の筋は原作と映画も同じである。映画の後半は出発した二人のその後を独自に描いている。

 興味深い変更点は親の描写についてである。小説では主人公の「彼」の父親が「成上がり」であるがゆえの存在感を放っていて、その背景や記憶が語られている。そして父と子の暴力の反復が結末で描かれる。他方、映画のほうで前面に出ているのは母親のほうだ。青年と母親の近親者の間の性的なにおいは原作にもある要素ではあるが、映画ではそれがより色濃く作品前半の要点となっている。この変更は、原作の中上と監督の長谷川・脚本の田村のそれぞれの親なるものの捉え方の違いに帰することができるものだろうか。少なくとも、家族の来歴を語るという話法はおそらくニューシネマの枠組みと潮流と相性が悪いように思う。おそらく父から母へと重点を移したのは正解だったのだろう。

 いうまでもなく父と母の二元論ではこの作品を語るのに不十分である。「彼」の幼馴染の「女」についても考える必要がある。「彼」の両親は、「彼」が「女」と一緒にいることをしきりに反対する。「女」が中学生のときに彼女の母親の恋人に犯されてから「女」は蛇のように淫乱である、というのがその理由である。小説の基となった実際の事件(市原両親殺人事件)では、恋人との結婚を両親に反対されたことが殺人の動機とされているが、反対の理由は恋人が風俗店に勤務していることであったという。ある視点からみれば、性暴力の被害者や性労働者への差別をこの作品を通じて読み取ることができる。もちろん、「彼」の両親の殺害を社会正義的なものに沿うものに読み替えるような真似をするわけではないが。

 それとは別の気になった箇所をあげてその感想を書いておこう。「女」は昔、彼女の母親に殴られたことで右耳の聴覚を失っているという。疑いの目を向ければ、それは「女」の嘘であって本当は「彼」のいうことをよく聴きとっているのだともいえるかもしれない。けれど、この悪意のこもった疑念はひとまず措いておこう。

 女は、まるっきり右耳がきこえない様子だった。女と寝、女を抱いたまま右耳に声を出しても、聞きとれない。女は、その度に声を左耳でききとめようとするのか、体をねじろうとする。それを体でおさえつけた。女を苛めていると思った。いや、時たま、女を苛めたくなった。女の右耳に話しかけた。女は時にかんしゃくを起こす。「順ちゃん、聴こえへんよ」女は言う。

『中上健次全集2』157頁

 「彼」はしばしば右耳のことで「女」をからかう。このあと、左耳を前に向ける「女」のしぐさを見たあとに「女をその場で抱きたかった」と思うところがある。「彼」と「女」の関係を聴こえない右耳をめぐるものとして見たとき、それは愛情というよりもねじれた庇護欲か何かのように私には映る。

 「彼」の両親の殺害もまた右耳の件に関係する話であった。両親は「彼」の幼馴染の右耳についてこういったのだった。「女」の母親が、自分の恋人が自分の娘を犯している現場を目撃して「女」の右耳を殴ったのだ、と。

 両親の殺害と聴こえない耳について、映画では原作にないやりとりがある。(*)

「ケイコ、ケイコ、俺はな夕方親父とお袋を殺したんだよ。だからもうケイコとは会わないよ、会えないんだよ」
「何よなんていったの。順ちゃん聴こえない」
「聴こえなくていいんだ。聴かない方が」

『青春の殺人者』1:08:00あたり

主人公の順がケイコの聴こえない方の耳に殺人を告白するシーン。ケイコはのちに殺人の事実を知ることになるが、このときはまだ知らない。これは告白の失敗の場面である。順も失敗することを知っていて告白を行っている。しかしこれはいささか劇的すぎる。むしろ原作にこの場面がないことが興味深い。小説にあるのは次のような瞬間だ。

「つけ火して燃やしたろか」彼は言った。女はききとれないらしく、顔をあげた。彼は黙った。女の耳が遠いのを、せめる気はしない。

『中上健次全集2』167頁

 本当に「彼」はせめる気がしないのだろうか。このとき、「彼」は両親から右耳の〝真相〟を聞かされたあとである。たしかにその強姦された過去について責めることはないだろう。しかし、自分の声を聴いてもらえないことについては? 


(*)小説では右耳が聴こえないのだが、映画では左耳に変更されている。思うに、これは原作にない二人で車に乗るシーンが映画では足されているからなのだろうか。助手席に座る「女」の右耳が聴こえないのだとしたら、右側の運転席に座る「彼」からの声が聴きとりづらいはずだ。加えて走行音も聴取の妨げになるだろう。それなのに二人が車内でスムーズに会話を行っていたとしたらいささか不自然である。しかしいちいち「女」が「彼」の言ったことを聞き返すようなセリフを書くわけにはいかないと考えたために左耳に変更したのだろうか。以上のことは勝手な想像でしかないが、私としては毎回相手の言うことを逐一聞き返すちぐはぐな会話というものを映画で見てみたかった気もする。

シャニマス:『バイ・スパイラル』と【一夏・泡沫・ギフテッド】

 以下、感想。単独のnote記事にしようかと思ったけど力尽きたので、ここに下書きを貼ります。

 最初にルカが事務所に現れたとき、その場にいたアイドルたちは総じてみな怯んだ。果敢にも甘奈は初対面の挨拶を交わそうとするが、「話しかけんな」とルカは拒絶する。この出会いの場面で私の印象に残ったのは、挨拶の言葉と拒絶のディスコミュニケーションよりむしろ、傷ついた「異物」を前にした時に抑えきれずに表れた〝怯み〟のほうだった。

『バイ・スパイラル』の作中に登場するゲーム『ライトアンドダークネス』の終盤には次のようなくだりがあるという。闇の魔法使いは光の魔法使いを解放させるべく、自分の傷ついた腕を賊徒たちに差し出す。「この傷には価値がある」「こうして生き抜いてきたからだ」「賊徒たちは、しかし嘲笑うこともせず ただ閉口して立ち尽くしていた」「なぜなら」「彼らの身体にもまた、同じように傷が刻まれていたからだ」

 そのあとは「この傷には、金貨などでははかれぬ価値がある」と続く。たしかにその傷は、ルカと「A」を闇において結び付け、新たな関係や新たな価値を生み出す可能性をもつような傷である。または、生き延びてきたしるしとしての傷には疑いようのない価値がある。しかし、ある見方をすればそれは典型的な価値転倒である。あるいは、単なる傷にありもしない価値をでっち上げて連帯しているのだ、それが闇の救済の真相である。このような印象も拭いがたい。

 これらのいじわるな見方を想定してもなお、闇の中の輝きなるものを積極的に見出そうとするのであれば、それは、やはり先に述べた傷ついた身体を前にした時の閉口にこそあるのではないか。ルカに出会った甘奈たちアイドルもどこかで傷を負っている。だからルカの傷つき、周りをも傷つけかねない態度を前に怯む。同じ傷ついた存在であるかもしれないからこそ、痛いほどその気持ちが分かるために言葉を失う。

 ただし、事務所でルカを前にした時にあさひには怯む様子見られなかった。あさひはルカに限りなく近づきながら最後の最後に残る違いに気がつく存在である。ルカのダンスをルカとは同じようには踊れなかったことによって。シャニマスは同化や連帯をばかり描くわけではないからこそシャニマスなのだ。

 さて、『バイ・スパイラル』では二つの勧誘が描かれていた。ランタン祭りのメンバーからルカへの誘い。そして、「A」から甜花へのゲームイベントの誘い。この物語に組み込まれている光と闇の二分法に従えば、前者は光から闇に向けた誘いであり後者は闇から光に向けた誘いである。この物語は誘う者と誘われる者の関係の二つのパターンを描いている。そしてこれらの勧誘はいずれも「成功」とはいいがたい結末を迎える。「A」とルカ、いずれも闇の二人がその闇において結ばれたのである。しかし二人はそれぞれ誘い続けた側と誘いを果たさなかった側の人間である。最後の傷による連帯は、二人はこの物語上を構成する根本的な対立を抱えたまま結ばれたのだ。

 一つ目・二つ目のコミュはアイドルとしての三峰結華を二つの方向から照らし出すような内容だ。これほんとにサポート?って感じで感情を揺さぶられる。だけど、三つ目のコミュは苦い感情を匂わせつつも再出発と日常に落ち着く。描かれていることのもつ意味は大きいのだけれど、サポコミュだからか日常から離れない。

 ここにシャニマスのよさがある。アイドルたちは常にきらめきの中を生きているわけではなく、ごく〝自然に〟世界になじんでいる。


 スター・ウォーズの新しいスピンオフドラマが始まった。アニメシリーズに出てきたキャラクターたちが実写になって登場するといううれしい作品になっていて、今のところ実写化のキャスティングはしっくりきている。あとはどういうストーリーになるかが未知数なので心配。

 最近の映画じゃ本物の虫はなかなか映らないからね。『イノセンツ』でみみずが出てきただけでもちょっとギョッとした。

輪入道のヴァース。「スタジオじゃなく現場が正念場」という前のBonberoのリリックへのアンサー(?)からはじまって、「デジタルよりアナログ」の言い方とかがたまらない。

 ドラマパートに気になるところがなければ見られる。新規怪獣と特撮も魅力的だけども、各話に出てくる「今回のキーパーソン」みたいなキャラクターの個性が程よい癖の強さに収まっているのがよい。今後もこのバランスを保ってほしい。

ながみくのコントの結末にアメリカン・ニューシネマを感じた。

 月~木放送、放送時間移動+縮小が発表された。残念といえば残念だけど、宇多丸さんの自由時間が増えたんならいいか、という謎の納得をしている。

水着がかわいいからほしかったんです。うれしいね。

今月の下書き

問題:輸入された文化

ハイデガーについての文章を読んでいると、哲学をすることはどうもウェスタナイズされることなのだという気がしてくる

 今月の11日はヒップホップ誕生50周年の記念日だった。くり返し語られてきたとおり、1973年のその日、ニューヨークはブロンクスで開かれたパーティーでDJクール・ハークがターンテーブルを駆使してブレイクビーツを披露したのだ。

 誕生50周年の祝いの言葉たちを耳にするなかで、ここ最近、私は日本のヒップホップシーンがアメリカからの輸入文化にほかならないことを思い出した。自明の事実はしばしば忘れられてしまう。これもUSのラップを聴かずに日本語ラップばかり聴いているからだ。そして、私は哲学もまた輸入文化であるということを忘れていた。

公式HPより

 哲学もヒップホップも日本には初めから存在しなかった。それぞれの分野の黎明期におこなわれたのはまず「外来」文化を受容する作業、「本場」からの書籍・レコードの輸入と翻訳だった。もちろん、そのことをウェスタナイズだ、アメリカナイズだといって忌避するほどつまらないことはない。すでにその文化を好んでいるにもかかわらず排外的なふるまいをするようなこともしたくない。それにそれらの文化を西洋ないしアメリカのものといってことも単純化しすぎである(イスラム圏からの逆輸入、キューバ移民)。かといって個人的な能力や性分として輸入や翻訳に力を入れることができるわけでもない。どうしようか。


 エピソード・トークが求められる場面があることに驚きだが、エピソード・トークを自分の裁量で脚色することが認められるというのも驚きだ。話を盛るときに「万人に面白いように」という方向づけが前提されているのは窮屈だと思う。

「Aだと思います」「Aであることがわかる具体的なエピソードはありますか」「ありません」
 具体的なエピソードがないことはエビデンスがないこととみなされる。エビデンスを重視する集団において、エピソード・トークの欠如は低く評価される要因となる。その集団に参加するためにはエビデンスとなるエピソードがなければならない。というより、そのエビデンス主義の作法にのっとって何が何でもエピソードを提出しなければならない。たとえそれが虚飾に満ちたものであろうとも。

 マーダー・ミステリー、何回かやっても慣れない。ゲームプレイヤーとしての態度を決めかねているのかと思っていたけれど、創作物の受け手としてのストーリーやギミックに対する態度も決定できていないのだろうな。
 マダミス批評なるものがあるとすれば、ゲームの要素(テーブルゲーム)とストーリーの要素(ミステリー)のそれぞれをジャンルの枠組みを参照しながら評価することから始めるのだろう。だけど、それだとプレイヤーの実感とは違う評価の仕方になりそうだ。つまり、実際に自分が言うことを選んだり嘘をついたりするという実践が捨象される。この不道徳性も評価の上で加味すべきである。

ロールプレイがなかなかできない、みたいな別の話もある。

この自分しかないみたいな理解をしているにもかかわらず、この自分を優先にことを進めるみたいなことができない

雛菜さんに代表される何人かのアイドルのすごさはおそらくこの二つを順接しているところにある。

 自分の好きな文章を書く人や自分をきっかけに書いてほしいと思う人がいる。そういう人たちに声をかけて原稿をまとめた同人誌を作れたらどれだけ嬉しいだろうと夢想する。だけど同時に、そういう編集長的なポジションに自らを置くことがどれくらいの権力と責任を生むものかはかりかねる。

 交流もないのにいきなり金銭を出すので何かを書いてください、というのはいきなり告白するやつみたいだ。考えものですね。

 観客にとってステージに立つ者は夢の中のような存在だ。その人を目の前にするとき観客は現実でなく夢の中にいる。夢見心地の観客はそこで責任を忘れる。自分が作りあげた夢の中のものに責任を負うことをいくら試みようとそれは無責任にしかならない。
 人間の見た夢と現実を一致させるための犯罪がエンターテインメントの現場でなされること。この人間の関心事は、この生=この夢で起こるべき事態を実現させることである。それゆえ、実現の機会が訪れたらすかさず思い描いた事態を現実のものにすべく動いてしまう。悪評や非難に替えてでも一回はあの人に何かをしたいと。

 服装の自由の主張や、被害者への二次被害への批判は類似する性犯罪についてもいわれることだ。もちろんそれらの言説は優先的に語られなければならない事柄である。だが、一方で事件が起きたのはライブにおいてであるという類例の少ない事案であることも加味しなければならないのも確かだろう。ただし、上記の内容は特定の人物の心理状態の推測ではない。

 私にはアラフォーのラップこそヒップホップの最良の要素だと思っているフシがある。般若の新譜やANARCHYの直近のアルバムを聴きながら思った。 これは私が10年代のRHYMESTERからラップを聞き始めたからだろうか。

 SALUがぎりぎり入るか入らないか、みたいな世代のラッパーたちの曲。シーンをサバイブしてきたラッパーだから間違いなく面白いラップが聴ける、みたいなところはあるのだろう。篩いにかけられただけあるというか。生存競争の勝者だけの言葉を聞いていると考えると、見方によってはあまりよろしくないのかもしれない。

 よい方向に考えよう。今の若い世代のラッパーたちの今後が楽しみになってくる。Bonbero・Tade Dust、EASTAとかが活動を続けるなかでどんなラップを聴かせてくれるのか、歳を重ねたときにどんな作品を作るのか……。

 「老人を敬いなさい」という道徳教育は、ときに具体的に戦時・敗戦直後を生きていた老人を敬え、ということだった。

 もちろん「大変な戦時・敗戦直後を生きていたのだから敬いなさい」という形ではなかった。今後は「若い頃はいい思いをしたのだから敬わなくてもよい」というかたちが一定の支持を得そうだが。社会福祉の問題だったら「敬うどうこうのレベルじゃなくて、すべての人に人権がある以上、その保障も別け隔てなく行われる」という話なのだけど。しかしこの文化では尊敬という謎の感情が発生しているのも厳然たる事実。

 特集「いま〈尊敬〉とは何か」

足踏みのリズムは掴めてきた

イヤなことは時間を決めて作業にするしかない。

 大勢の視線と歓声を一身に集めるアイドルの「個」と、帰路につくときの自分の「個」が違いすぎてビビるときがある 実は私もアイドルに憧れてるってこと?

 ライブを見た後のある種の虚脱感について。

プラトンだってカントを読んじゃいないんだからな

それでもプラトンも哲学者なんだよ、という。こういう屁理屈はすでに何万回、何億回もいわれているのだろう。

音楽:20年代のラップとゼロ年代のカバー

 深夜、日本語ラップの新しいMVを漁ったあとに「ガチャガチャきゅ~と・ふぃぎゅ@メイト」のカバーを聴いて泣きそうになった

 これや

 こういうのを聴いた後に

 これを聴いた。サムネからして違いすぎる。

 片やシーンの流行を追いつつ自分のスタイルを磨くラッパーたち。片や、かわいい声で歌われる享楽的な楽曲。カバーされることで刹那的なゼロ年代文化への懐古感情も湧いてくる。原曲発表時の私は小学校低学年でこの曲の存在すら知らなかったから捏造された懐古だけど。

 もちろんこの二つを並べたときのあまりのギャップに困惑したのではある。ただ、それよりも、どちらにも等しく感動したということに、私はいっそう困惑した。どちらの文化も同じようにすばらしいことが私にはわかる。でもどうして同じすばらしさだと思えるのか。どうしてお湯に浸った右足でその熱さに沁み入りながら、冷水に浸った左足でその冷たさに震えることが、この一つの存在において統合されるのか。こういう困惑を処理しきれなかったばかりに涙というかたちであらわれたわけです。


 〝死によって生がありえる〟とか〝他者によって私がありえる〟みたいな話はときに感動的に聞こえる。それに、この世界の在り方の一側面を正しく言い当ててもいるのだろう。 しかしあまりに陳腐でないか。
 この短い結論に至るまでの長い議論を追うことこそが肝心なのであって、それなのに結論だけを取り出して好悪を述べたところで不毛なのだ。こういう声が聞こえてくる。おっしゃる通りです。

 結論の前衛性でどうこういってもしかたがないのだということを知りつつ、やはりそこに目が行ってしまう。尖っていることをいわなきゃ始まらないじゃない、みたいなスタンスをやめられない。それが良いことばかりじゃないことを知っているのに。

今月のファボ・ブックマーク

 いいインタビューだった。どうしてあんなにティモシー・シャラメを見事に撮れるのか(意訳)という問いにたいする、俳優たちの顔が好きなのです、という答えがよかった。

美琴さん……。

 これで今月分はおしまい。

 今月だけで私を除く家族の全員が新型コロナウイルスに感染してしまった。特に親はコロナウイルス対策にたいへん気を使っていたので、感染してしまって気の毒に思う。当然、体調も心配だけども、それに加えて気落ちするようであればなおさら可哀想だ。コロナ禍もずいぶん長くなりますね。みんなはいま何を考えていますか。

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