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『絆光記』の感想


 「光について私たちは語らなければならない」という宣言ではじまる一篇の物語から、言葉にすることの励ましを受けとったからといって、さっそくその感想を言葉にしてみようか、というのは心のはたらきとして素朴すぎるだろう。

 けれど、ここは素直になって感想を書いておきたい。下書きのままにするのではなくて、記事として公開しよう。言葉への抵抗を残しておくために。言葉を天敵としながら言葉を使おうとする者の文章は出来が悪いだろう。けれど、そのような言葉への反抗の記録がこの世界にあればある分だけ、愉しい気持ちになることを私は知っている。

ルポライターの変化

 『絆光記』は、ひとつの文章を、私的なノートから社会的な記事へと移し替えるまでを描いている。すなわち、「白紙の文書」における「光について私たちは語らなければならない」という文を、「役立たずの光について」という末尾の文言を取り除いて、アイドルの特集記事に移し替えるに至るまで。

 いったい何がルポライターをしてこの移し替えの作業を実行せしめたのか。それは、加齢によってもたらされた自己認識の変革である。

 このルポライターは、新書を出版しているベテランなのに自分を若手だといい、「おじさん」なのに高校生のアイドルに対して真剣に否定の言辞を書き連ねている。もちろん、この「なのに」という接続詞には偏見が含まれている。46歳の人間が何をいおうと関係がない。しかし、身体が限界を課している。

 肉離れや顔の皺というある種の物質的な変化の過程が、彼に変革を促す。 「人間もただの動物なんだから 言葉があるからつい忘れちゃうけど ……あははっ!」という医師の言葉。この物語では、アイドルもプロデューサーも、ルポライターも言葉にたいして夢中でいる。この医師だけが、ただひとり言葉の夢からすこし離れた唯物的なものの見方をしている。

 ルポライターはそのあと、肉離れの痛みを感じながら、自分を騙すことへの疲労が祟った身体でもって、言葉への態度の変更をおこなったのだ。

印象に残ったいくつかの場面について


第一話「カーテンのリアリズム」より引用

 身体的な限界を知ること。それは、マネージャーの仕事に就いた元・アイドルの「転び方だけは、自信がありますから」という言葉に集約、昇華されている。もちろん、この言葉は八宮めぐると現地の高校生が走る場面と比べられる。彼女たちは転ぶことなく、速く走ることができる。

 しかし、めぐる自身も限界をもっているのだ。たとえば、灯織との電話ごしにめぐるが「んー、んー、んー」といって話題を思い出している姿。めぐるが話しておきたいことの多さに思い出す力は追いついていない。「んー、んー、んー」という言葉未満のうなり声が電話ごしに耳に届くとき、無限のように見えるアイドルの光の限界が示されている。

 それぞれ限界をかかえた二人は、【王と蚤】において、「どうかなぁ……見方によっては 皮肉にも取れるような書き方をしてるかも」「そうなんですか?」「そうなんですよ」というやりとりをするに至る。持たざる者であったルポライターは、持てる者にちょっとした復讐を遂げる。もちろん、可愛らしい仕返し程度のものだけど。

 それにしても「可愛い天敵たち」だなんて、なんと愛らしい言葉だろう。ルポライターが「喧嘩」であるとか「天敵」という語に辿りついたことについては、私は、祝福したい気持ちでいっぱいになる。

「反抗記」について

 しかし、「私たちは、光について語らなければならない」という言葉の出処であるルポライターの手記が打ち止めになってしまうことについては、私はこれを言祝ぐことができるだろうか。

 手記という言葉を探し求める方法にも限界があり、終わりがある。ほかの言語を用いた活動が有限であるのと同様にそういえるだろう。しかし、その執筆は『絆光記』という物語の結末とともに終わることができるものだろうか? 特集記事の掲載はその前身である「反抗記」の終了を決定づけるものだろうか?

 むしろ、この物語において「反抗記」ははじめから存在していなかったといっていい。この物語に固有の遠近法では、すべての「反抗記」はあらかじめ「絆光記」に読み替えられる。これは言葉のもつ「汎光」(第5話)の力でありその仕組みである。

 手記における綺麗な言葉/つまずいた言葉という二項対立を超えた、言葉が言葉であること自体の綺麗さ。私としては、シャニマスにはこの綺麗さにも反抗する可能性を「掬い取る」ことを期待している。もちろんその言葉を天敵とする者たちの反抗は言葉で記すことによって掬い取られてはならない。



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