2024-04「公園を散歩することに時間を当てていた」

 引きつづき記事を更新します。

 今月はぼんやりしていた。公園を散歩することに時間を当てていた。春の公園は移り変わりが激しかった。桜が散ったあとの長閑な雰囲気はよかった。遠くの木と手前の木を交互に見ると、気持ちが落ち着いてくる。

 小説も読んでいたんだけど、感想を書けるものはなかった。感想を書くために本を読んでいるわけじゃないけど、残念といえば残念。感想を書いておいて、あとで読み返すことは楽しいので。


今月のツイート

 別様の同一性。美琴さんと樹里さんの私服が好きでしてね。いや、どうも、ありがとうございますね。

 どのアイドルに真乃さんの制服を着せてもしっくりきた。発見だった。

 ひとりのアイドルが往還を遂げるお話。それは『さよならごつこ』や美琴GRADのように、もはやお決まりの型になっている。だけど、その往還の形式から自由に世界の中を巡るものとして、音とか埃が、霧子さんのまわりに存在する。そうはいえないでしょうか。

 パリで日本語ラップの黎明期を語りなおすことで、必ずしも日本のラッパーたちはラップをプロテストソングとして受容したわけではないという側面が見えていた。ラップ=反抗というイメージが、フランスのヒップホップシーン全体に根付いているのか、あるいはこのイベントの聞き手個人の関心によるものなのかわからないけれど。

 ゲーデル「はじめまして、林というのはじつに興味深い構造物だね」

 みたいな謎のセリフだけを残していった。

 ここで注目してみたいのは、ゲーデルが、オッペンハイマーとアインシュタインの会話に首を突っ込まない点だ。すると、別の人物との比較が可能になる。オッペンハイマーとアインシュタインに爪弾きにされたと思い込むストローズだ。わずか数カットにしか登場しないゲーデルは、ただ木立にひとりで佇んでいるだけで、今作の物語を科学者への復讐感情によって動かす重要人物と鋭い対比をなしている。

 拡大解釈の試みはいいとして、映画館での鑑賞中のできごと。原爆の投下地を決める会議の、スティムソン陸軍長官による「京都はやめよう、新婚旅行で行ったんだ」発言の場面では、うしろの客席から「Fuck……」という声が聴こえた。

 今回のラジオも面白かった。

 【fuka】の感想。

 シャイニーの日コミュの感想。

 1958年に起きた小松川高校殺人事件を基にした、大島渚による室内会話劇。映画が終わるとともにいきなり場内が明るくなるタイプの映画なので、映画館で見られてよかった。

 パラコレ引けてないです。

イベント:「“本当に生まれてこなければよかった?”──親ガチャと反出生主義をめぐって」

 今月の楽しみだったイベント。戸谷さんの新刊をきちんと読んでから行った。ハイデガー批判とか、責任概念の研究など気になる点が出てきたので、別の著作もあらかじめ読めばよかった、と思った。これから読めばいい。

 『親ガチャの哲学』は現状に対する打開策として、中間共同体の新興とそこでの対話の可能性に賭ける。実際のイベントでは、恐山さんが「物わかりの悪い」ポジションを取ったこともあってか、戸谷さんも自身の議論に納得がいっていない旨をお話しされていたのが印象的だった。

 ハイデガーを斥けたあと、著書ではアーレント的対話の可能性へ向かうのだが、イベントでは独我論的な(非)対話の可能性が検討される。『ただしい人類滅亡計画』での、建設的な議論の欺瞞性に倦んだグレーと魔王の「共鳴」は、いかなる場面だったのか、という解釈を議論に手がかりにしていた。

 品田が示すのは、断絶されたコミュニケーションによる密やかな友情だ。しかし、この逆説的な理念をどう扱えばいいものだろう。一人として存在しているのに複数人で存在することの価値を享受するという、ちぐはぐな理念。

映画:『海がきこえる』ティーチイン付き上映

 今月の楽しみだったイベント二つ目。制作の背景事情がおもしろかった。制作期間が限られていたため、カメラワークをなくして画面を固定することで作画の作業コストを節約したという話があった。それによって、登場人物の日常的な仕草を動かす芝居にリソースを割いたのだ、と。

 私が質問したのは、「作中で何度か用いられたフォーカス送りは、固定ショットのなかで映像的な演出をするためのいわば苦肉の策であったか」ということだった。先月の記事にも書いたとおり、私はこの作品のフォーカス送りの演出意図に興味があった。

 望月監督からの答えは、簡潔に、「フォーカス送りは、観客の意識を向けさせるために使われる一般的な演出なので、カメラワークが固定されていることとは関係がない」とのことだった。記憶する限りではこういう内容だったと思うが、何にせよ私の仮説は外れていた。

 トークが発展しない質問に時間を割いて申し訳なかったな、と思いつつ、自分の聞きたいことを聞くというわがままを完遂したことに満足した次第です。

 コメティック感謝祭の感想。【桜花拾】にもいえることだが、はるきさんが目の前の状況から理想を掬いとる方法が素敵だなと思った。あくまで自分の理想でなければ手を放すという誠実さ。

 レジェンダリーシリーズはどうなるんだろう。これからも見続けるのだろうか。

 石が足りない。ちょっとした気の利いた演出があってよかった。怪しいうさんくさい三峰さんはもっと見たい。続編を頼む。

 新型コロナウイルス陽性でした。昨年の10月ぶり、2回目。皆さんもお気をつけて。

今月の下書き

『リクルタリアートとは何か』
 労働力を売りわたす意志をもたない急進的就活生が就職面接を受けることは、労働力商品を安値で買い叩く資本の運動に組み込まれた「採用担当」なる労働者に対して、いかなる資本の増大にもつながらない時間を創出するサボタージュの革命的実践の新たな形態なのである。面接の失敗は革命の成功にほかならない。
(「序文」より)

 存在しない政治パンフレットを妄想していた。

『シャニアニを学ぶクリティカル・ワード』(フィルムアート社)
第一章.スローシネマ

 存在しない評論本を妄想していた。シャニアニのドラマパートの演出をどう見たらいいかわからず「スローシネマか!?」とひらめいた。一瞬、本気で思った。だけど、どう考えても間違っている。

 人に何かを尋ねられたとき、何も浮かばず、頭の中が言葉以前の熱い液体で満たされたように感じる。頭が空っぽというより、グツグツ煮えた具材のないスープが詰まっている。言葉で答えるかわりに熱々のスープをお椀に注いでお出ししたほうが、正確な返答だとすら感じる。

 予想外の質問がくると「いや、手持ちにはスープしかないよ」とびっくりする。滞りなく返答できたしても「頭の中にはスープしかないのに、口からは言葉が出てくることなんてあるのか」と不思議な気持ちになる。

 批評家・小林秀雄と詩人・中原中也との関係で知られる女優・長谷川泰子の出演作『眠れ蜜』(1976)に、秋山駿が出演しているらしい。見たい。

 『路上の櫂歌』、189頁を参照。『眠れ蜜』はソフト化されておらず、10年前にイベントで上映されたきりみたいだった。

中学・高校時代、教科書を分冊にしていたことを思い出した

 本の背にカッターを入れて、二分冊にしていた。カバンの重量をできるだけ軽くするために。

思想:キエティスム

 よくわからないままキエティスムの本を読んでいるのだが、自分を放棄しろ、自分を卑小な存在であることを知れ、という教えがしつこいほど書かれており、迫力がある。

 『キリスト教神秘主義著作集 15 キエティスム』を借りてぱらぱらとめくっていた。この世には知らない思想がたくさんある。一部であれ、その思想が記された著作が日本語で訳されて出版されている。

 宗教思想への関心というより、次のような関心が私にはある。言語活動において沈黙することはどういう意味をもつのか、世界を内面の魂とその外部に区分したとき、どのような行いが良しとされるのか。その点を踏まえたうえで、以下に続く、特に展開もない、やや長い宗教についての文章を読んでください。

 キエティスム(Quiétisme)は、17世紀に流行したカトリックの神秘主義思想のひとつ。外にある被造物への執着を捨てることを促し、魂の内面において神を愛し愛される黙想の方途を論じる。そのため、外的な規範・制度を軽視している、肉体的な放縦を容認しているとして異端の扱いを受けた。キエティスムの名も蔑称として名づけられたものだ。

 キエティスムの思想は魂の内なる沈黙を目指すけれど、最終目標は、むしろその静寂した魂のなかで神から語りかけられ、そして神と語り合うことにある。世の中の蔑称の多くがそうであるように、「静寂主義」もその思想の内実を表してはいない。

 この世界で耳を傾けるべき相手はただ一つしかない、しかも話せる場所は一つに限られる。神への信仰をこのように考える思想なのだとすれば、心ひかれるところがある。私は神を信じているわけではないから、神概念の理解の一つとして新たに学ぶところがあるという意味で。

 しかし、その方法が問題だ。キエティスムの代表者・モリノスがいうには、その相手と語り合うためには、被造物から離れ、魂の内で孤独にならなければならない。そのために、欲望や意志のみならず、自己放棄しなければいけない。自己を忘れ、自己を忌み嫌い、自己を否定せよ、と。

 世俗の事柄を捨てる人は多い。しかし彼は、自分の嗜好、自分の意志、さらに自分自身を捨てることがない。このために真の孤独の人はかくも少ないのである。というのも、自分の嗜好、自分の欲求、自分の意志、またいろいろな霊的賜物ややすらぎ、これらを、それがたとえまったく霊的なものであっても、すべて捨てさるのでないなら、魂はかの内的孤独の最高の浄福に到達することはありえないのだから。

モリノス「霊の導き」(鶴岡賀雄・訳)
『キリスト教神秘主義著作集 15 キエティスム』(教文館、1990年)

 孤独についての記述としてはおもしろいが、実践の書として受け取ることはなかなか難しい。自分についての一切合切を捨てること、というのは想像もつかない。

 このような記述にたいして、宗教のニヒリズムの典型として批判することもできるのだろう。ある種の思考法の持ち主たちはそれを奨励するだろう。けれど、いまの私がそうしたところで何をしたことになるか判然としない。あるいは、宗教一般をうさん臭いものとして、切り離してしまえばいいのかもいれないけれど。すると何も言うことがなくなってしまう。

 話は変わるが、私は地球で最後の人間になったときのことを考えがちだ。そして、この妄想を思想や規範を見きわめるための試金石にするくせがある。キエティスムの場合はどうだろう。

 キエティスムを信じる者は、世界で最後の人間になったときであろうとも、つまり現に会話する相手がいなくなった世界でも、神と言葉を交わすための観想に励むだろう。あるいは、世界に二人しかいない場合であっても、片方の人間と話すことは問題ではなく、魂の内奥において神に語りかけられることが最重要事項だというケースのほうがより味わい深いかもしれない。

 肝心なのは、その残されたキエティスムの信者にとって魂の内部での出来事が重要であるのは、世界に人間が一人だけいようと、一人もおらずとも、それとはまったく無関係に、ただ現に重要なのだということだ。

『悪は存在しない』を見るよ。

 濱口竜介の最新作。前半のカメラワーク、中盤の会話劇に創意工夫がちりばめられている。問題は、終盤のある人物の行動を、その創意工夫のなかのひとつと見るか、あるいはそれらとは並べられない作品全体にとって決定的な展開だと見るかだと思う。

 私は、前者の見方をしている。それは『悪は存在しない』というタイトルを重視していない限りで、アンバランスな見方であることを自覚してもいる。だけど、鑑賞後の、全体としては収まりのいい作品だったな、というのんびりした感想に忠実になると、そういう見方をするしかない。衝撃のようなものはこの作品のポイントだとはあまり思わない。

 四月に聴いた曲。ほんとうに励まされます。

 四月の分はおしまい。

 シャニマス関連のツイートの割合が多かった。これは自分の意識したものではなくて、周年キャンペーンなどでシャニマスの方が活発に動いていた結果だと思う。それが直に反映されるようなツイッターの使い方を私はしていたのか。

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