令和元年11月21日~30日

11月の後半。まずはこのお話から。

①11月21日は立川流談志家元の祥月命日にあたり、今年もよみうりホールで談志まつりが開催されました。

家元の逝去は2011年。春に僕が入門した年で、ご存知の通り東日本の大震災がありビンラディンもキムジョンイルもこの世を去った激動の年でした。ちょうど八年前のことも覚えていて、ああ確かあのときに声をかけてくれたあの人ももういないのだと思ったり、僕がこの報を知ったのは全国にニュースが駆け巡った11月23日のタイミングでしたが、この日になるとあの頃に遡ります。


②母校明治大学にて、落研の顧問の教授にゲストスピーカーとして呼んでいただきました。商学部の授業です。別々の授業に二週にわたって出演です。今週は一週目。500人規模の大教室で、大きさでいえばけっこうなホールのサイズです。久しぶりに変な緊張を。日本語表現論の授業なので、そのあたりを踏まえ、られたかわかりませんが、いつも通りやれば良いということをこれまでの経験から理解しています。初めての生の落語になるのだから、その責任を負う覚悟での高座!になったか!


③石川県白山市へ。去年から伺っています。なかなか各地方の仕事がなく、滅多に遠出できることがないので嬉しい限りです。特にこの白山市は、落語「加賀の千代」でも知られる女流歌人・加賀の千代女生誕の地でもあります。いつも高座でお世話になっております。

石川県といえば、個人的には加賀の三太郎のひとり、西田幾多郎です。

昨年は金沢から七尾線に乗り換え、かほく市の宇野気で降りて西田幾多郎記念哲学館へ足を運びました。ここでは西田直筆の書をみることができます。まさに肉筆という、運動の証がそこにあるのです。売店で去年買ったTシャツがかっこよくて愛用しているのですが、背中に西田が書いた「無」の字が幾パターンもプリントされていて、その度ごとになぞられて生まれる文字に強く惹かれます。

北陸へ向かうにあたって西田関連の本をということで講談社学術文庫版の檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』をポケットに入れていきました。こちらの本、生命哲学という観点からベルクソンードゥルーズから引っ張り込むように西田を解するので、このところの人文系の出版の流行とマッチしていて、逆輸入みたいな感じで(この言葉の使い方合ってるかな)却ってとてもわかりやすく触れることができました。生命哲学という仕方で受肉したところをつかめるようになった印象です。

補章「生命と微分」で九鬼周造との比較で指摘されているように「西田の思考が、生命とポイエシスの哲学であるにもかかわらず、奇妙にも異性関係やエロス性についての議論が欠落している」というあたりに、ドゥルーズのマテリアルな部分が身体を与えてくれているように感じます。

それにしても今年はベルクソンとドゥルーズだった。夏にずっとベルクソン講義録『時間観念の歴史』を読んでいて、これはまさにベルクソンが授業でしゃべったことの速記です。これが日本語で読めたのはとても嬉しかった。新訳の『物質と記憶』も買ったけれど積んであるままだ。もう部屋のどこにあるかもわからなくなっている。僕はいつ読むのだろうか。

ベルクソンに関しては、いずれ落語家としての視点からいくつか語りたいことがあります。そのキーワードが「記憶」です。従来落語について付される説明を更新する内容になると思います。


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