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死ぬより怖かった

 拝啓 Y

 2003年頃から10年以上かけて、わたしがある一つの精神的な鍛錬を兼ねて書いたり歌ったりを繰り返していた話を、ここに書き残しておきますから、運良くこんなところまで辿り着いたあなたはあなたが愛され認められるわけを一つ思い知るといい。

 ある一つの鍛錬とは、他人の目を無視し、敢えて軽蔑され得る、人に避けられるとわかっていることをわざわざ表現に組み込んで、本気で嫌われようとすることです。
 裏を返せばわたしは本当に、軽蔑の目や避けられ、無視されながら生きることが、死ぬより恐ろしかった。どうなったと思いますか。

 良くも悪くも無視はされなくなりましたが、副作用を起こしてしまいましたよ。
 無視されたくないから、言いたくもないことを言っているような。あの頃、勇気のある人だと喜んでもらったこともあったけれど、何と戦っていたのかといえばそれは嫌われたくない、無視されたくない、出来れば人に好かれて(愛されて)みたいと切に思っていたわたしです。

 その自分(恐怖する自分)を打ち負かした後「わざわざ」それをしなくなったわたしは、時に失望の眼差しを受けました。本当の自分を掘り起こすのに、そんな作業が必要だったわけは、それよりもずっと前、自我というものが目覚め始めた頃に、生まれてからこれまで、人様の不機嫌の理由がわからないで、黙って正座してわからないことを反省して、反省しているフリのようになって、わかっているのかと訊かれると「わかっていない」と(正直に)答えて更に怒りを買って、一人で自責の念を溜め込んでも、それは一向に世界の何処にも反映されず切ない毎日だと気付いてからのことです。だから失望を受けたって、今のわたしは大切なわたしに声を掛けるようにあなたに声を掛けることしかしない。

 いろんな気持ちになる旅の時間をもらったんじゃないの。いろんな気持ちになれて嬉しいよ。同じ時代に。

(死ぬより怖かったけれど
 わたしが選んだ道は
 侮蔑も無視も 誰にも見えないことも越えて
 きみを愛するただ一つの道)


 草々不尽

 令和4年1月15日付 J

 11.729光年彼方へ枯渇しても愛を湧かす

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