言葉の葉っぱ

友人とゲームをしながら夜を徹していたが、相手が他事に向かってしまったために筆を執る次第である。


言葉はなぜ「葉」なのであろうか。「やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことの 葉とぞなれりける」。かの有名な『古今和歌集仮名序』の序文に書かれているものだ。平安時代中期に紀貫之が執筆したと言われるこの作品に、言葉の葉の由来を求めることが多く感じられる。


全く上手く言い表したものだ。人の心を種とする、ということは人が生み出すということ。また、よろづのことの、とは、万の言ということであり、数えきれないほど多い語(あえて言葉という表現は避ける)を表している。そして、その様子がまるで枝を広げた先に付く葉のようである、という極めて高度な比喩だ。


しかし、本質はそれだけではないのではないか?と感じている。数多在る様子を表すだけであるならば、別に葉という表現を使う必要はないだろう。しかし、何故平安時代の日本人達は言(こと)を葉に例えたのであろうか。
そこで私は、葉という表現を用いているため、木を想像することにした。1本の桜の木である。別に桜でなくても構わないだろうが、私の勝手な偏見として昔の表現で木が出てきてしまうと、大抵桜か梅でイメージされてしまうのだ。別にイチョウの木でも、杉でも、松でもなんでも構わない。葉を付けない木があるのであれば遠慮願うが。脱線した。木を想像すると、大きく分けて3種類の要素に分けられる。枝葉、幹、根である。


さて、ではこの木を人に例えて、役割を与えてみよう。木の根は人の土台、つまり思考の型や心、無意識下でのアーキタイプの様なモノだと考えられる。根は支えるものであり、支柱であることを当てはめた結果だ。


次に幹だが、これは人を形成する本体、つまり肉体と捉えられる。根を心と捉えるのであれば、器と受ける表現の方が相応しいかもしれないが。土台を受けて形成されるモノ、と言えば人に例えるならやはり躰以外には考えられなかった。思考回路などを基に形成される行動、と考えられなくもないが、結局その時に躰が必要である。よって、肉体(器)と捉えておく。


最後に枝葉、特に葉。葉の役割は色々あるが、光合成、呼吸、蒸散など外界と接する機会が多い部位である。これを人の役割に例えるなら「交流」、あるいは「関係」といったところか。人が外界と接するということは、他者と関係を持つことであると考えられる。その際、必要になるのは言である。心だけで通じ合えることなど稀だ。その場のノリとテンションだけで問題無いのは酒を飲んで調子に乗っている大学2年生ぐらいである(ひどい偏見だが)。


以上より、葉の役割とは人に例えると言の役割だと言える。だからこそ、数ある言の中から、葉を選び、比喩に用いたのではないか。
葉とは広がりを表し、現代のように言が溢れた世の中を表現するには些か足りないかもしれない。しかし、一語一語を味わううえでは、海などよりも葉の方が余程味わい易さを感じさせてくれる。そう考えていると、言葉もそうだが、苺が無性に味わいたくなった午前5時ごろであった。

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