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近代的銀行業務の先駆け

テンプル騎士団
現代までつながる近代的銀行業務の起源は意外と古く、12世紀に設立されたテンプル騎士団が始まりだと言われている。
テンプル騎士団は、1119年に聖地エルサレムへと巡礼するキリスト教徒を守ろうとフランス貴族ユーグ・ド・ペイヤンが親族8人に呼び掛け設立したのが由来である。エルサレム王ボードゥアン2世から神殿の丘にあるアクサー・モスク(この丘はかつてソロモン神殿があったと信じられていた)に本部を置く許可を得ると、「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」略してテンプル(神殿)騎士団と呼ばれるようになった。

権限の強大化
1129年、ローマ教皇庁に正式に認可されるとテンプル騎士団は、本格的に資金を集める権限を手にする。彼らは、ヨーロッパ名門名家に金銭や土地の寄進を求め、貴族の子弟を騎士として入団させた。正式に認可されたことにより、テンプル騎士団に入団できるのはとても名誉なことになったのである。
1139年にローマ教皇インノケンティウス2世が騎士団に、国境の自由通過を認める教皇勅書を出すと、いかなる王権にも属さず教皇にのみ責任を負う組織となった。ここまで社会の柱石的な強大な組織となると、当然ながら巡礼者本人の安全だけでなく、財産の保護にも務めるようになっていった

銀行業務
聖地への巡礼者と十字軍はヨーロッパを少なくない期間、留守にすることになる。財産を持ち危険な遠征をする者はいない。帰国するまで財産を保護するために白羽の矢が立ったのが、世間体にも安全が保障されたテンプル騎士団である。さらにテンプル騎士団は、イングランドから中東まで分布していた城塞の保管庫を守護していたので為替手形の働きをする書類を発行し、分布している城塞でなら現金化できるシステムも構築した。現在の銀行支店やATMの走りである。
聖書では利子をとることはご法度とされているが、テンプル騎士団は保管料としてこれを回避し、ますます莫大な資金力を持つようになっていった。

テンプル騎士団の崩壊
莫大な資金力を背景に、テンプル騎士団はブドウ畑や農園を作り、自前の艦隊での貿易等、多角的に経営業務を行っていく。たびたび王侯達に援助をしており、フランス王国の国庫も正式にテンプル騎士団に預けられている。しかし、1291年アッコン包囲戦で敗北し、キリスト勢力が完全に聖地周辺の足がかりを失い騎士団としての威信が失われていくと、莫大な資金をフランス王フィリップ4世に目を付けられる。1307年にはフランス全土の騎士団数百名が告発され、拷問で不当な罪を自白させた。さらに1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の解散させ、1314年にはテンプル騎士団の最後の総長ジャック・ド・モレーが処刑された。

終わりに
現在、テンプル騎士団というと神秘的・謎の結社的なイメージが強いが、確かな社会的地位を持った組織であり、その社会的地位を担保に巡礼者のボディーガード・銀行サービスを経営し莫大な資金力を手に入れた即物的な騎士団である。そのため、聖地喪失という社会的地位が損なわれるとあっけなく崩壊してしまったのである。社会的地位・信用は簡単に損なわれてしまうといういい反面教師になる例である。

参考資料
図説世界史を変えた50の戦略 ダニエル・スミス 原書房


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