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松井茂記『表現の自由に守る価値はあるか』

憲法学者の松井茂記教授が、表現の自由をめぐる現代的な新しい問題について考察した論文と書き下ろしによって構成されている。

第1章「ヘイトスピーチ」、第2章「テロリズム促進的表現」、第3章「リベンジ・ポルノ」、第4章「インターネット上の選挙活動」、第5章「フェイクニュース」、第6章「忘れられる権利」という各章について、表現の自由に関する論点が書かれている。第2章、第5章、第6章が書き下ろしということだ。

これらの論点では、いずれにおいても、表現の自由における「表現」として保護する価値があるのか否かという問題が先鋭化している(その意味から、本書のタイトルは『その表現の自由に守る価値はあるのか』ではなく、『その表現に守る価値はあるのか』のほうが適切である。版元が「表現の自由」というタームをタイトルに使いたかった、ということだと思うが)。著者は、いずれの章、いずれの論点においても、いかなる表現も「表現」である限り、表現としての価値を一応認め、そのうえで他の価値との利益衡量のなかで制約すべき表現か否かを判断するスタンスを堅持し、表現の自由を最大限尊重する立場に立つ。しかし、上記いずれの論点でも、表現の自由の制約を支持する世論に溢れ、国際的にも、国内的にも表現の自由を制約する方向での立法がなされたり、検討されたりしている。

それほどまでに、上記の論点における対立する諸価値と表現の価値との相克は激しいし、現代における表現の自由は押し込まれている。世論、そしてそれを背景に政府は表現の自由を制約することを比較的容易に実行してしまっている。そして、比較法的な分析が豊かな本書によれば、このことは日本のみに限ったことではない。

そのような状況に一石を投じるべく、本書が記されてたのだろう。著者は「あとがき」において、次のように書いている。

  本書で検討した論点の多くは、表現の自由への制約を国民の多くが求めているものである。ヘイトスピーチ、テロリズム促進的表現、リベンジ・ポルノ、フェイク・ニュース、「忘れられる権利」、いずれについても国民の多くは表現の自由の制約を支持している。政府は、そういった国民の声に押されて、表現の自由を制約しようとしているものといえる。多くの国民は、これらの表現の自由は、いずれも行き過ぎであり、保護に値しない行為と受け止めているものと思われる。つまり、多くの国民はこれらの表現行為には、表現の自由として保護すべき価値はないものと考えているのでないかと思う。(P383)

表現の自由で保護される「表現」とは何か。日本国憲法や日本の最高裁は、憲法21条の保護を受ける「表現」が何か、定義していない。日本では、最高裁は、表現としての価値を欠くことを理由に一定の表現を類型的に表現の自由の保護から排除する理論を明示的に採用していない。しかし、本書でも記されているとおり、例えば、カナダでは、最高裁が「表現」を「意味を伝達することを意図するコミュニケーション」一般をすべて「表現」と定義していたり、米国の最高裁も利益衡量の秤の上に乗せる「表現」を広く解釈している。

また、ヘイトスピーチに関する議論でよく出てくる、対抗言論の余地がないとか、思想の自由市場のメカニズムが働かないといった反論についても、逆に表現の自由の保障が大きく損なわれかねない、という旨の市川正人教授の理論を援用して、反論している。本来、思想の自由市場論においては、表現行為のしやすさや思想内容の受け入れやすさは問題とならないのであって、実際に反論することが困難であるとか、反論が有効性を持たないがゆえに当該表現を禁止すべきだという主張は、伝統的な表現の自由に関する理論を大きく修正するものであり、こうした主張を認めれば逆に「思想の自由市場の実質的な保障」や「表現の自由を守るため」といった名目で、国会による広い範囲の表現行為の禁止が認められることになりかねないと再反論する。

表現の自由を、自己実現や自己統治といった個人的な価値で構成するだけでなく、民主主義の基盤を支える社会的な価値として構成する議論がもっとなされてよいのではないだろうか、と個人的には思う。

本書は一般書とは言えないが、表現の自由の現代的論点について考えを整理し、深めるために有用な一冊だ。

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