見出し画像

『ビフォア・サンセット』:2004、アメリカ

 アメリカ人作家のジェシーは新刊のキャンペーンでパリの書店を訪れ、記者との懇談会に参加した。「この本は自叙伝ですか」という質問に、ジェシーは「誰かと出会うことの素晴らしさを伝えるのが、この本の目的だ」と答えた。
 ジェシーは9年前、ブダペストからウィーンへ向かう列車の中でフランス人女性のセリーヌと出会った。ジェシーは明朝の飛行機の時間まで彼女と語り合い、街を歩いた。惹かれ合った2人は、半年後にウィーンの駅で会う約束をして別れた。その時の思い出を綴ったのが、今回の小説だ。

 「半年後に彼女と出会えましたか」という質問に、ジェシーは答えをはぐらかした。次の作品についてのアイデアを話している時、彼はセリーヌの姿に気付いて驚いた。
 懇談会が終わり、ジェシーは書店のオーナーから「帰国する飛行機には、遅くても7時半には発たないと間に合わない」と言われる。ジェシーはセリーヌに声を掛け、コーヒーに誘った。セリーヌは「私が知ってるカフェがある」と言い、2人は並んで歩き始めた。

 セリーヌはジェシーに、パリに住んでいて、あの書店が行き付けだと語る。だからジェシーが来ることは、貼り紙で知っていたという。彼女はジェシーの本も読んでいた。
 9年前の12月、ウィーンへ行ったかどうか尋ねられたジェシーは、「君は?」と訊き返す。セリーヌが「行けなかった」と答えると、ジェシーは自分も行けなかったと告げる。それを聞いたセリーヌは、安堵の表情を浮かべた。

 セリーヌは祖母が死んで葬儀と重なったため、行けなかったのだと事情を説明する。ジェシーが理由を説明できなかったため、セリーヌは彼が本当はウィーンへ行ったのだと察知した。ジェシーは「ウィーンで2、3日過ごした。ホテルの番号を書いた貼り紙までした」と話した。
 ジェシーは小説に関して、「書き上げるのに3、4年掛かった」と言う。「忘れられてると思っていた」とセリーヌが口にすると、ジェシーは「忘れられるはずが無い」と告げた。

 ジェシーに「君のことを話してよ」と言われ、セリーヌは「環境保護団体の国際ミドリ十字で働いている。政府で働いていたけど辟易して、本当にやりたいことをやろうと思って転職した」と語る。環境問題について話している間に、2人はカフェに到着した。
 席に座ると、セリーヌはジェシーに「いつパリに来たの?」と尋ねた。ジェシーは「昨夜だ。12日間で10都市を回った」と答えた。

 セリーヌが1996年から1999年までニューヨーク大学に留学していたことを話すと、ジェシーは1998年からニューヨークに暮らしていることを告げた。2人は、年を取ること、人生の楽しみ方、欲望、宗教などの話題について語り合った。
 ジェシーは「これから8時間、空港と飛行機に缶詰になる。その前にパリを見ておきたい。少し散歩しないか」と提案し、セリーヌは「いいわね」と賛同した。

 歩き始めた2人は、9年前にセックスしたかどうかで意見が別れた。ジェシーは「セックスした」と主張するが、セリーヌは「してない。日記に書いてある」と告げる。しかしジェシーが「午後に公園でセックスした」と言うと、セリーヌは自信が無くなり、「貴方の言う通りかもしれない」と口にする。
 ジェシーが「僕にとって、あの日は特別だった」と言うと、セリーヌは「私もよ。思い出を仕舞い込んだのは、祖母の葬儀と約束の日が重なったせいかも」と述べた。

 セリーヌは「今日の再会で、12月16日の思いでも変わるわ。悲しい結末じゃないもの」と言う。ジェシーは「生きている限り、思い出は変えることが出来る」と告げる。
 2人は公園のベンチに腰を下ろし、本当に分かり合うことの難しさについて会話を繰り広げる。セリーヌが歌うことを知ったジェシーは「どんな歌か、1曲歌ってよ」と頼むが、「ギターが無いと歌わないの」と断られた。

 セリーヌはジェシーに「書店に戻らないと飛行機に遅れるわ。セーヌ川沿いを歩きましょう」と告げ、2人は再び歩き出す。セリーヌは「新聞で読んだわ。結婚して、子供がいるのね」と言う。ジェシーは「息子のヘンリーは4歳だ。妻は小学校の教師をしている」と説明する。
 セリーヌは、報道写真家の恋人と交際していることを話す。ジェシーは「あと15分ある。遊覧船に乗ろう。運転手に電話して、迎えに来てもらうよ」と言う。2人は遊覧船に乗り込んだ。ジェシーはセリーヌに携帯電話を借り、運転手に連絡を取った。

 ジェシーは「あの本を書くことで、君との出来事を全て保存したかった。あれは本物の出会いだった」と言う。セリーヌは「人はどんな交際も簡単に忘れるけど、私は忘れられない。付き合う人は全てが特別なの」と語る。
 ジェシーが「君がウィーンに来てくれていたら、人生は違っていた」と口にすると、セリーヌは「人生は思い通りにならないものよ」と告げる。結婚生活について訊かれたジェシーは、「結婚は、覚悟を決めて、それを貫くことが重要になる」と答えた。

 2人が船を降りると、運転手のフィリップが待っていた。セリーヌが別れを告げて去ろうとすると、ジェシーは「送っていくよ。もっと話したい」と言う。セリーヌはフィリップにアパートの場所を告げ、車に乗り込んだ。
 走り出した車中で、セリーヌは「もう恋愛に夢を持てない。恋をするのは無理。貴方の本のせいで、あの時の自分がどんなに純粋で希望に満ちていたか分かった。恋する気持ちは、あの一瞬で使い果たしてしまった」と語った。

 話している内に興奮してきたセリーヌは、「もう降りるわ。車を止めて」と言い出す。慌ててジェシーは、フィリップに「そのまま行ってくれ」と指示した。
 セリーヌは少し落ち着きを取り戻し、「貴方は少年の心のままパリに来たけど、でも結婚してる。私は、あの瞬間が戻らないことが悲しいの」と言う。ジェシーが「君が好きだし、一緒にいたい」と告げると、彼女は微笑みを浮かべた。

 セリーヌは自分の私生活の酷さを嘆き、「心が死に掛けて、麻痺してる」と言う。ジェシーは「僕の生活も最悪だ。幸せなのは息子といる時だけ。カウンセンリングは受けたし、自己啓発書など様々なものを試したけど、僕は妻を愛せない」と明かす。ジェシーが自分より惨めな生活を送っていることに、セリーヌは驚きを示した。
 やがて車はアパートの近くで停止した。ジェシーはフィリップに「アパートの前まで送ってくる」と言い、セリーヌと並んで歩く。そして2人は、アパートの入り口に到着した…。

 監督はリチャード・リンクレイター、キャラクター創作はリチャード・リンクレイター&キム・クリザン、原案はリチャード・リンクレイター&キム・クリザン、脚本はリチャード・リンクレイター&ジュリー・デルピー&イーサン・ホーク、製作はリチャード・リンクレイター&アン・ウォーカー=マクベイ、共同製作はイザベル・クーレ、製作総指揮はジョン・スロス、撮影はリー・ダニエル、編集はサンドラ・エイデアー、美術はバプティスト・グレイマン、衣装はティエリー・デレットル。

 出演はイーサン・ホーク、ジュリー・デルピー、ヴァーノン・ドブチェフ、ルイーズ・レモワン・トレス、ロドルフ・ポリー、マリアン・プラズティーグ、ディアボロ、デニス・エヴラール、アルベール・デルピー、マリー・ピエ他。

―――――――――

 ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞した1995年の作品『恋人までの距離(ディスタンス)』の続編。前作のリチャード・リンクレイター、ジェシー役のイーサン・ホーク、セリーヌ役のジュリー・デルピーが再び結集した。ちなみに撮影、編集、製作も前作と同じ顔触れだ。
 今回はイーサン・ホークとジュリー・デルピーも脚本に携わっている。前作から9年ぶりの続編で、劇中でも9年が経過した設定になっている。劇中の物語はリアルタイム進行になっている。

 前作はベルリン映画祭で銀熊賞を受賞したものの、興行的に成功したとは言い難い。にも関わらず、9年も経過してから続編が作られることになったのは、リチャード・リンクレイターが娯楽映画『スクール・オブ・ロック』をヒットさせ、監督としての地位が上がったことが大きいのだろう。彼やイーサン・ホーク、ジュリー・デルピーが続編を熱望したとしても、映画会社が金を出して配給してくれなければ、映画は公開されないのだから。

 この映画で技術的に素晴らしいと感じるのは、ずっと会話が続く中で、カットが切り替わるということだ。例えばカフェへ向かって歩いている時、カメラが正面から2人を捉えていて、途中で後ろからの映像になる。
 2つのカメラが同時に撮影しているわけではなく(それだと正面から撮影している時に背後のカメラが写ってしまう)、途中でカットを掛けて撮影を止め、背後からのカメラで続きのシーンを撮影しているものと考えられる。

 しかしながら、そのカットの切り替えは、会話が無いところで行われているわけではない。会話が続いている中で、正面からの映像→後ろからの映像という切り替えがある。しかし、その切り替えを感じさせないほど、会話がスムーズに繋がっているのだ。
 これは、そのカフェへ向かうシーンだけではない。最初から最後まで、全ての場面で、カットが切り替わっても、会話は自然に流れている。また、車内で会話を交わすシーンは、1テイクで撮ったらしい。こちらもスゴい。

 私は前作を見ているが、個人的な希望としては、あの後、半年後に再会してほしかった。ただ、そこで再会したという設定だと、そこから続編が作られることは無かっただろう。ジェシーとセリーヌの、「あの時に再会できなかった」という後悔が、この話を開始させている。
 最初の内、2人は「会えなかったのは大したことじゃないよ」というポーズを気取っている。しかし、だんだん本音が透けて見えるようになっていく。最初は今の生活に満足しているようなことを話していたが、やがて満ち足りない気持ちが語られるようになり、やがて、その満ち足りなさは、あの時に会えなかったことへの未練へと変わっていく。

 2人の会話は、実はセックスに関する内容がかなり多い。その大半は、セリーヌ側から発信されている。回りくどい表現ではなく、露骨にセックスの体位やフェラチオのことを語るのだが、下ネタが多いにも関わらず、あまりエロい印象は受けない。
 それは、この映画の良さでもあるが、見方によっては欠点でにも繋がる。とても上品で洗練された雰囲気に包まれており、2人は清々しくて爽やかなのだが、それは「心の奥底まで全てさらけ出した、ホントの付き合いではない」という風に受け取れなくも無い。

 しかし結果的には、それが欠点に繋がることは無い。なぜなら、2人の会話のテイストは、少しずつ変化して行くからだ。同じようなトーンで、同じようなテンポで会話を続けているが、遊覧船に乗る辺りから少しずつ下ネタが減っていき、それと比例して、どんどん互いの私生活へと入り込んで行く。取り繕う飾りが剥がれていき、ホントの心が見えてくる。
 車に乗ると、もう下ネタは出て来ない。そして、互いに今も相手を愛している気持ちを、素直な態度で吐き出して行く。しかし、かと思うと、ジョークではぐらかす。だが、そのジョークが本音をオブラートに包むためのものだということは、こちらにも伝わるようになっている。

 完全ネタバレだが、実は本作品、明確な結末は用意されていない。ジェシーがセリーヌの部屋でニーナ・シモンのCDを掛けて、セリーヌがニーナ・シモンの物真似をしながら「飛行機に遅れるわよ」と告げ、ジェシーが「分かってる」と言って微笑し、リズムを取るセリーヌを彼が見つめているところで、画面が暗くなるのだ。
 それは中途半端な終わり方にも思えるが、本作品の場合、なぜか「それでOK」という気持ちにさせられる。なぜなのか、明確に理由を説明できないのは歯痒いが、後味が悪くないんだよなあ。

(観賞日:2011年2月5日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?