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たかまつななさんは何故こうなのか

先の記事は、たたかまつさんのような人(つまり保守の対極にある若い人)の番組でさえ「作りが雑」、「中立を狙ってない」、「悪意を感じた」、「切り取りがハンパない」と評する『主戦場』という作品が、法廷でのデザキの言い分とはかけ離れて、いかに偏った作品であるかをお伝えするためのご紹介だった。

そのような特定の意図から離れて、純粋にたかまつ動画を評価しようとすると、途端に彼女の無神経が気に触りだす。「従軍慰安婦」が孕む深刻な問題性に無頓着な彼女が『主戦場』の映画の誘導で、更なる迷妄に迷い込みながらきゃっきゃ喜ぶ様には怒りよりも憐れさが先に立つ。「歴史修正主義の人たちはバカだと思う」、「否定論者は感情論でモノを言う」・・・まんまと乗せられている。学者を出せば左派=理論派に見えるだろうが、実際は逆。右が理論派で左が感情論。登場した保守派にしても、切り取りさえなければ藤岡先生を筆頭に名だたる論客揃いだ。

■従軍慰安婦の悪影響

本能の野蛮が開放される「戦場」という非日常にあって、「性」の放蕩を可能な限りコントロールするべく、「契約」の原理に基づき、無秩序なレイプを最大限予防した日本のやり方は、M・ヒルシュフェルト『戦争と性』を引用するまでもなく当時の時代背景に鑑みて、手本にされこそすれ非難されるようなことではない。ましてや日本は拉致国家ではない!「強制連行」、「性奴隷」などと不名誉な「言いがかり」が世界に拡散されれば、海外の同胞や子弟たち、我々の子孫がどれほど肩身の狭い思いをするか、たかまつさんは思い至らないらしい。彼女は尹美香が何者だったかも知らないのだ。

ではなぜ、たかまつさんはこうなのか。売れない芸人だから?外国知らずとか、まだ守るべき「家族」を作っていないとか、いくつか考えられる要因はあるし、河野談話の余韻もあるのだろう。彼女のキャラクターからはマジョリティーからはみ出す疎外感もありそう。けれど、もっと大きな原因が私なりに理解できたのは、吉見義明著『従軍慰安婦』を読んだからだ。なるほどと腑に落ちた。

原因はたかまつさんに限らず若い人--それも自分は意識高いと勘違いしていそうな若者--に見られる「国家と個人の関係」の不見識が根本的な原因だ。自国、日本という国に対する愛着の希薄さを指摘するもっと手前で、国家とは何か、近代国家の成り立ちがよく分かってないのだろうと。吉見義明氏の場合は確信犯的に、たかまつさんについては単なる無知によって。

■近代国家の成り立ち

もしも国家がなく、個人がバラバラで自然状態にあったとしたら・・・トマス・ホッブスが言ったように「万人の万人に対する闘い」になっただろう。「北斗の拳」の世界観だ。

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だから契約を結び、個人は国家に力を預け、自分たちの安全を確保する・・・という発想が近代国家成立の原点だ。契約の結び方はそれぞれの国によって異なり様々だが、基本的に国民は武力を持たず、国家だけが警察力を持ち、裁判をする権能を持つ。『社会契約論』のホッブスはこのイメージを小さい個人が集まって大男になった怪神「リヴァイアサン」に託したが、私はファインディング・ニモに出てくるイワシの大群のほうが好み。小さい魚が集まって、まるで大魚のように意思表示する。

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日本は明治以降、急ピッチで西欧流「近代国家」構築を急いだ。この概念に照らして個人から見れば国家は契約相手である。こうにして成立した国家にも、それぞれ文化的背景に根ざした個性もあるし、「人格」に該当する「格」がある。藤原正彦著『国家の品格』は2006年のミリオンセラーとなった。

■国家の恩恵

国家は善でも悪でもなく、善にも悪にもなれる。而して、左翼は国家=権力=悪としか見ないが、国家による恩恵も大きい。私たちにとっては「日本」という国だ。そのことは藤木俊一著『我、国連でかく戦へり』にも端的に記されている。若い頃から頻繁に海外渡航された著者は、行った先々の国で日本人だと分かって無条件で信用してもらったエピソードを紹介しておられる。各国の空港で、入管の係官はパスポートもろくにチェックせず、パッと開いてさっと戻すだけ。スタンプすら押さない。

ある時、ベルギーのブリュッセルの空港で、「俺はテロリストかもしれないよ」と笑いながら冗談を言ってみた。隣のレーンの外国人たちは詳しく調べられているのに、何故、自分は調べられないのか、パスポートにスタンプも押さないのか不思議に思ったからだ。すると係官は「日本人はベルギーに来て事件を起こしたり悪い事をしたりしないからな。それよりも、いつも犯罪を起こすほうを調べる方が効率的だからだよ」と、笑いながら答えたのだ。(前掲書 P76)

著者の藤木氏は、「これは、ひとえに私たちの先人たちが作ってきた信用のお陰」と語っている。「後世の日本人たちにも、同じ思いを享受してもらいたいなと考えるようになった。日本人である、ということの利益と誇りを知ってもらいたいと思ったのだ。」と結んでいる。

筆者も赤いパスポートの恩恵をしみじみ感じた個人的な経験を持つので、藤木氏の感覚は手に取るように分かる。海外に根を下ろして暮らした経験があるなら、現地の長所と短所の両方が把握できるし、日本のことも外から相対化して見ることができる。また、海外に在れば自分は「個人」だと思っていても、否が応でもプチ全権大使にならざるを得ない場面もしばしばある。外国人は個人としてだけではなく日本人であるワタシと見る。日本という国は、ワタシ(個人)と不可分なのだ。同時に、旧植民地、アフリカ諸国からの労働者たちや、自国の政治不安や国そのものが崩壊したため政治難民になったカンボジア人やベトナム人の同僚が(非常に賢い知識人でありながら)単純労働に甘んじているのが自分の職場だったり。

地続きで、国境線が何度も引き直されてきた欧州人は、歴史的に絶えず戦争に巻き込まれてきた。それゆえ(たとえEUに統合されようとも)国境線の重要性は国防面でも文化面でも国民の一人ひとりに身体化されている。そこは我々日本人と大きく異る点だろう。

■国家体制への攻撃

既述のとおり、左翼は国家を権力としか見なさず、悪い部分や危険な部分にしか目が行かないが、恩恵も大きいのだ。そうでなければ「国家」なんぞ世界史からとっくに消えているだろう。国家という土台があるから「基本的人権」も「言論の自由」も成り立つ。共産主義のインターナショナリズムは常に国家の括りを標的としてきたし、近年ではビッグテック、経済グローバリズムの影響で「国家」の括りは挑戦を受け続けているが、疫病の蔓延にも国家が防波堤の役割を果たす。今は「国家」とボーダーレスが激しくせめぎ合っている状態だ。

従軍慰安婦の吉見義明氏の思想信条が那辺にあるのか、情報不足で断定はできないが、少なくとも吉見氏は「個人」しか眼中にない。吉見氏はアナーキズム(注:アナーキズム=無政府主義とは、国家、社会、宗教など一切の権威、権力を否定し、完全な自由社会の樹立を理想とする思想)なのではないかと推察しているが、典型的な戦後左翼には違いない。だから「個人」しか眼中になく、「本人の意思に反していたら性奴隷」などと言ってしまえる。おそらく中野晃一もそうなのだろう。デザキは下請けの受け売りというところか。「個人:国家」の関係ではどちらに偏りすぎても弊害が生じるもので、「国家」ばかりが強すぎても「全体主義」に陥るが、吉見氏のケースでは比重が個人100:国家0くらいに偏っている、「国家」という評価軸が不在なので思考が単純で三次元に複雑化されない。今現在、世界的に蔓延る懸念は、マイノリティーが絶対権力と化し、「個人」だけが重視され、反対意見が圧殺される「左からの全体主義」の懸念だ。

■まとめ

近代国家云々などと、しちめんどくさい事を考えずとも、(たかまつさんがバカにする)つるのたけし氏のように健全な良心と自分の頭で考える力があれば、国というものの大切さは若い人でも分かることだ。

ところで、伊藤詩織氏は日本を貶す時に嬉々として語る。自分が適応できなかった日本社会を潜在的に憎んでいるからだろう。デザキからも同じ臭い--アイデンティティーの揺らぎと疎外感--が感じられる。彼らと比べれば、たかまつななさんは素の性格はそれほど悪くない人だと感じる。動画で隣で喋る東大芸人の青年のようにシニカルに腹に一物持ってなさげだ。(『主戦場』に批判的な)上司の言うことを素直に聞く耳もまだある。彼女の場合は吉見氏ほどの筋金入りではないものの、疎外感がベースとなり無知が助けて「国家」の重要性に無頓着なのだろう。お花畑と言ってしまえばそれまでだが。