40歳からの独立 -人材派遣会社をクビになり、映像クリエイターとして独立して4年-No.3 退職を決断した大きなきっかけ

こんにちは。山本 輔です。
前回の最後にお話した通り、今回は「退職を決断したきっかけ」についてお話をします。

退職を考え始め、その準備(僕の場合は「どれだけ人様に貢献できるか」を判断)したとはいえ、だからと言ってすぐに決断するには至らないのです。至れないのです。

退職・独立を考えている方も多いと思いますが、最後、どこでその決断ができるかどうか。むしろその一点だけで逡巡されている方は本当に多いと思います。

僕自身も、「退職届を出す」にいたっては、心理的障壁がありました。
「本当にやっていけるのだろうか」
「40を超えて独立なんてできるのだろうか」
「転職すらできそうもないのに」
「貯金もないのに。明日食べるご飯もないのに。来月からお金が入らないなんて」

こんな状況の中で、自分自身が前向きな決断をできるわけがありません。
それでも、決断をせざるを得ない状況に、自分自身は追い込まれました。

一つ目は、自分自身の業務スタイルの改善強制。
そのとき勤めていた職場では、自分自身の仕事の仕方がどうやっても職場の環境に馴染めず、苦しんでいました。何をやってもうまくいかず、それこそ(詳細は語りませんが)薬を飲みながら業務に真摯に向かうも「それは真剣に業務に向かっていないからミスが起きるのだ」という視線を皆から受ける環境。自ら長所を職務に提供することで、苦手な部分をカバーして行こうとなんども上長とも掛け合いつつ面談を繰り返しましたが、結論「人と同じことができないのであれば、ここに居場所はない」という状況。毎週「業務改善報告書」という名の反省文を提出し、全員会議で吊し上げられる毎日。

更に、今回(自分自身のみならず、この会社にとっても、お互いに)不幸だったのは、僕が「自ら会社理念に共感して就職希望をして入った会社」ではなかったことです。
僕はこの1年前に転籍という形で、経営理念から未来のビジョンまで大好きだった前職から、全く異なる業種、業務形態のこの会社に移らざるを得ない状況になりました。
それでも、その会社理念を自らに浸透させて勤め上げることは可能なのかもしれませんが、僕にはその選択肢はありませんでした。
それまで、理念として20世紀型労働集約型産業を打破する仕事をしていたのに、突然「労働集約産業万歳」には切り替えられないのです。

自ら求めたワークスタイル・社風・業務理念ではない会社の中で「ああ、この人たちの求めることは僕にはできないな。人間には改善できるものとできないものがある。ここにいたら僕は地獄だな」と改めて実感しました。

現状も地獄、動くも地獄。
でも、動いた場合の地獄はあくまで「地獄かもしれないよ」の仮説でしかありません。
「確実に地獄」と「仮定地獄」なら、僕は後者をとったのです。

二つ目は、自分の映像の師匠にあたる方からの進言、でした。
上記の通り、現職での立場がなくなっている時期、自分の師匠にあたる人とドライブに行く機会がありました。といっても毎週のようにお会いしてたのですけどね。
その時に、彼がぽろっと「お前酷い顔してるぞ。飯ぐらい食わせてやる 辞めちまえ」と言ってくださったのです。
もちろんその言葉を鵜呑みにするほど僕も純真ではありませんが、その時のその言葉には気迫がこもっていました。本当に、僕のことを心配してくれているような。そして、師匠なら本当に飯を食わせるほどの仕事をとってくるような。
まさに、それを信じてもいいんじゃないか、と思わせてくれたのです。

そしてその後、独立してからは本当に1年近く、その時の月収以上の仕事を作ってくれました。
その代わり、朝までかかっての直しや納期1日の仕事など、修羅場もたくさん経験させてもらえたのです。
いや、代わりなんて言っちゃいけない。月収以上の仕事をくれると同時に、僕を改めて「鍛え直して」くれたのです。
もちろん、勤務時間なんて考え方はありません。泊まり込んで編集、片っ端からの納期、修羅場修羅場修羅場。
でも、苦しさは何もありませんでした。「輔のことを一番理解して使えるのは僕だから」という師匠の言葉に、僕は本当に救われていたのです。
自分の長所短所を明確に理解し、短所に目をつぶりながら長所を引っ張り出してくれる方との仕事。それがどれだけ人の役に立てるのか。真逆の環境にいたからこそ、それをもう一度目の当たりに経験できたことが本当に大きな自信になりました。
今となっては、その頃の経験は本当に宝物です。

そして三つ目は、その上記二つを挟んで。
そして、これも多くは語らない。語れない。
妻は、あまりの僕の苦悶の表情を見るに耐えかねて、僕に黙って、僕の上司である副社長に電話で直談判をしたのです。
その是非は問いません。内容も問いません。社会人の家族としてそれは眉をひそめる行動と受け取る方もいるかもしれません。
でも、僕にとってそれは「そこまで護ってくれる人がいる」というメッセージに他なりませんでした。
その結果、妻の判断も「辞めた方がいい」という結論。

そしてその3時間後、僕に送られてきたメッセージが一言。
「どうしてもつらかったら、心中しようぜ。」

僕は決断しました。

「尊厳と家族」と「食扶持」は、全くもって比較できるものじゃありませんでした。そこに「仲間からの援助」の声をかけてもらえる状況の中で、取れる選択肢は一つ、です。

退職届を出した翌日の朝、見えた青空の色は、それまでと違いました。
「空ってこんなに青かったんだ」と。
この世の中は、まだまだ素晴らしい。僕はまだまだやっていけるかもしれない、と、青空を見ながら少しだけ、前向きになることができました。

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