『「このレスポールでしか出せない音があるんじゃないか」と思って、毎日ギターを手に取る』
八月十五日(土) 猛暑日(75年前の今日はこんなにも暑かったのだろうか)
最近、気が付いた。
「別にギターを弾きたい訳じゃない。ただ、”このギター”を弾きたいだけなのだ」
ということに。
もっと(気持ち悪く)言えば、「このレスポールと会話がしたい」のだ。
*
ーーーこんな音出してもらいたいんだよね、私。
「じゃあ、どこ弾けばいいのさ」
ーーーもうちょっとフロント・ピックアップ寄りで弾いてみてくれない?
「こんな感じ?」
ーーーうーん。もっとネック寄りかな。
「丸い丸い音になっちゃうよ」
ーーーそうね。でも、そっちの方が私らしいと思わない?
…みたいな。
*
生真面目にメトロノームに合わせて練習している。
例えば、BPM/150で十六分音符を刻みながら、クロマチックで上昇下降を繰り返すだけだけど、これがとても楽しい。音楽的な興奮というよりも身体を機械化していく風情があって、人造人間的な趣きがある。
bpm/150までは10刻みでクリア出来たが、そこから先はいきなり10上げるのはキツい。bpmを5だけ上げて身体と指を慣らしていく。その繰り返しで時間だけが過ぎていく。
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イングウェイやインペリテリをコピーしたい訳じゃないから、ある程度の速さで弾ければそれでいい。自分なりに気持ち良い形で表現が出来るのであれば、それはそれで良しということにしている。断じて、諦めじゃない。たぶん。
速さを競うことに意味はない。先日、YouTubeでbpm/2000(!)という速弾きを観た。人間の限界に挑む様は美しくもあり、またそれなりに笑えもしたが、デジタルのこの時代、パソコンに楽譜を打ち込めば幾らでもマシーンが速弾きをしてくれる。そこに勝機はないだろう。
それよりも、
「”この”レスポールでしか出せない音があるんじゃないか」
とそんなことばかり想っている。
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それは例えば、好きになったら、その人のことをもっと知りたくなるのと同じようなことなのかもしれない。その”本来性”なるものを覗き見てみたくなるのは当然の欲望。だからこそ毎日触りたくもなる。触れば触るほど関係性は深くなっていく、と信じて。
ピッキングの場所や強弱、ピックをつまむ指を浅く持つか深く持つか、どんな角度で当てるか。左手の押さえる強さ、なるべくフレット寄りのギリギリで、とか探り出すとキリが無い。でも、終わりがないからこそ触り甲斐もある。
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折角、自分のギターがあるのだ。好き、の一点のみで手に入れ、手放すことなく(けど弾くこともなく)十数年もずっとそばに置いておいたレスポールだ。
俺が良い音で鳴らせなかったら、一体誰が鳴らしてくれるのだろう。(誰かに貸して良い音で鳴らされた日には寝取られたみたいでクソ最悪だ)
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トーンというものが欲しい。
レスポールと自分が双方、納得出来るような音。
「これだよね?」
ーーーそうそう。上手ね。
みたいな。
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脳内で鳴る音楽と指先が繋がって、思い描いた通りの音色を出してみたい。フレーズも然り。
人生経験が否応なくも絡みついた音。
ふと手を見る。
生命線は今どのくらいの位置にあるのだろう。
生きていれば毎年、歳を取っていく。それには国籍も肌の色も問わない。
「いやー。今年は歳を取らなかったな。まぁそういう年もあるよね」
なんてことを経験した人は人類史上いないだろう。
*
人生経験か、と思う。
この国の未来の為に命を差し出した人間達が築いた土台の上で、(かつての)敵国産ギターを愛でている。
平和とはかくも尊い。
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