短編118.『喪主の瞳が映すもの』
ーーー何がこの男をここまで変えてしまったのか。
かつて優しさを湛えていた瞳は切り取られた蝋のような平面さ。
花の美しさや空の蒼さを映していた瞳。動植物の不思議さに驚き、子の成長を慈しんだであろう瞳。その同じ瞳が今や泥沼のように何も映してはいなかった。
怒り、があればいい、と思った。悲しみ、があればいい、と思った。何もなかった。
*
彼の子が死んだ、と聞かされたのは深夜に掛かってきた電話からだった。対面でも渋るような話題は、距離を隔てたところでその衝撃が和らぐものではない。私は作りかけのカレーの火を止め、受話器の奥に集中した。
不幸な事故だったらしい。毎年必ずと言って良いほどニュースに挙がる、川での水難事故。ーーーまさか自分が当事者になるとは思わなかったよ、と彼は言った。
どこか他人事のような調子で話す彼に違和感を覚えた。しかし子もいなければ、ましてや近親者すら亡くしたこともない私にとって、それは想像の域を出るものではなく、彼の抱える哀しみは想像で補うしかなかった。
「辛いな」と私は言った。
「よく分からない」と彼は言った。
電話は切れた。
*
葬儀の日、彼は白髪だった。近寄った彼の喪服の肩には銀の毛が数本乗っていた。最後に会った一年前は黒に茶色がメッシュ状に入ったゼロ年代風の髪型をしていた。私は戸惑った。いや、髪の毛ではない。戸惑いの原因は他にある。
笑っていた。弔問客への配慮から出る精一杯の作り笑顔、といったものではなく、心の襞から滲み出る真性の笑み。かつての彼が嬉しくてたまらない時によく見せていた、人好きのする笑顔だった。
ただ一つ違う点があった。皺のよった目尻の横、本来、眼球のある部分には”つるり”としたガラス玉がはめ込まれていた。両目ともに。魂の宿らないものの常、無理に光らせようとした結果、義眼は義眼であることの主張を止めることはなかった。
目と髪の毛、どちらの話題に触れて良いのか分からなかった。ーーー随分変わったねぇ、と言い合うような場面ではない。葬儀の夜だ。ここは通夜の席であり、同窓会のそれじゃない。そして彼はこの度の当事者だった。喪主の札が胸ポケットから垂れ下がっている。
「まぁ見てやってよ」
ペットでも見せるような気軽さだった。彼の手は棺とは正反対の方角を指し示していた。
参列者の列に並ぶ人々は、振り返り振り返り、彼の方を見ていた。その彼は道化師のような軽快さで弔問客をあらぬ方向へと導いていた。親族席は能面の陳列棚のようだった。無理もない。
*
直会の席で彼は一升瓶を一気に煽った。頭には黒いネクタイが巻かれていた。もし、喪主の行動に規範があるとすれば、そこからは大きく外れていた。
何が彼をここまで追い詰めてしまったのだろう。
子どもの死が彼を変えてしまったのか。
世界はそんなにまでも醜いものなのだろうか。
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