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翻訳小説との「出会い」

風邪をひいて、一日寝込んでいた。
寝床の上でゴロゴロしていると、つい昔のことを思い出す。

確かあれは小学生の頃だったか。やはりこんなふうに風邪をひいて、学校を休んで寝ていた。当時住んでいた家の寝床の脇には本棚があって(今の住まいもそうなのだが)、寝ているしかすることのなかった私はそこに差してあった本を手に取った。トールキンの『指輪物語』。訳者は瀬田貞二氏。今でこそ文庫になっているが、我が家にあったのはハードカバー・函入りのものだった(誰の意向か、この手の装丁の児童文学書が我が家には溢れていた)。

それまで読んできた本は日本の小説がメインで、その他に外国のものと言えば、岩波少年文庫の類に収められたものや、新潮文庫の『シャーロック・ホームズ』シリーズを読むくらいだった。それらには「舞台が外国であるということを除けば、日本の小説と変わらずに読めるなぁ」という感想を抱いていたような気がする。
そんな中での、瀬田訳の指輪物語。「馳夫(はせお)さん」と呼びかけたり、「両の腕(りょうのかいな)を振り上げ~」という表現が出てきたりと、正直言って面食らうことが多かった(調べてみたら、『馳夫』は"Strider"の訳語)。風邪で頭がボーッとしていたこともあるのだろうが、「日本語で書いてあるのに、何が書いてあるのかすんなりと頭に入ってこない」というのは初めての体験だったように記憶している。

その後『指輪物語』は『ロード・オブ・ザ・リング』として映画化されたが、私の中ではあの不思議な訳の強烈なイメージが残っていて、「ファンタジー」としての不思議さよりも、イメージとしての不思議さが先行する。

思えばそれが、初めて翻訳小説と「出会った」瞬間。それまで読んでいたものの裏に「翻訳」という行為があることなど意識したこともなかったのが、「他の言葉で書かれているものを日本語に持ってくるというのはこういうことなのか」と、小学生ながらに実感したのだ。

成長した今、本屋に行って小説を買うとなると、日本文学よりも外国文学の棚についフラフラと足が向いてしまうのは、この時に「翻訳」に魅せられたことが大きいだろう。
紀伊國屋書店本店に行くないなや、2階に昇ってフラフラと壁際の外国文学コーナーに向かい、その後、振り返ったところにある詩集のコーナーでボーッとしている人間がいたら、それはきっと私である。

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