見出し画像

校正とはお手紙なのかもしれない

仕事柄、日々原稿に赤字を入れている。

私の職場の場合、執筆者から送られてきたWord原稿をゲラにして、そこにこちらで赤字を入れて執筆者に送り返し、執筆者側でも修正があれば校正をしてもらい…という流れで進行している。
そしてこの赤字の入れ具合というのはある意味、互いの信頼の度合いを示しているのではないかと思うのだ。

これまであまりやりとりしたことのない相手だと、ついこちらも遠慮して最低限の赤字しか入れない。基本的に明らかな誤りを除いて修正内容は執筆者に一任することになる。
だがこれが既に見知って良い関係ができている相手の場合、まずもってお互いに遠慮がない。こちらもWord原稿の段階からバンバン赤字を入れるし、先方もものすごい量の赤字を入れて戻してくる。
時間やコストを考えれば必ずしもこのやり方は正解ではない(「原稿を送る前の段階で十分校正してからもらうよう、先方に伝えなさい」と言われる可能性すらある)のかもしれないが、それで良いものができるなら結構じゃないか、などとつい思ってしまう。

この日も、先方から戻ってきた赤字、いや、黒ボールペンで書いているようなので正確には黒字なのだが、それが大変に込み入っていた。真っ黒に潰れてほとんど読めないようなところもある。
でもこれは、裏を返せば信頼の証なのかもしれない、と思うのだ。先方も「秋本なら汲み取ってくれるだろう」と思っているだろうし、実際こちらも先方の字の癖などは把握しているので、じっくりと目を凝らせば何が書いてあるかはほぼ分かる。むしろ、「この校正は俺にしか成し遂げられないぜ!」くらいの気持ちになってくる。

そうなるともはや、校正とはお手紙のようなものなのかもしれない。お互いの間に心理的距離があれば型にはまったものになるし、心理的距離がなければ型など気にせずに本音で語り合う。別に真っ赤にすれば良いというわけではないのだが、自分が担当している以上、「こうすればもっと良くなるのでは」という提案はどんどんしたくなるものだ。

そしてもう一つ、校正が手紙と似ていると思う点があるのだが、それは校正指示の書き方だ。
私のところでは組版を外注していて、赤字を入れたゲラはスキャンしてそちらに回す。直接電話などでやりとりするわけではなく、ゲラのみのやりとりとなる。

そうすると、校正指示をあやふやにしてしまうとこちらの意図がきちんと伝わらず、正しく修正してもらえなかったりするのだ。
もしくは、お互い人間なので、修正箇所があまりに多い場合にはゲラの頭に「修正多くてすみません…!!」と書いたりする。
あやふやな表現で意図が正しく伝わらなかったり、つい一言添えたくなったり…まさにこれは手紙のやり取りとそっくりだ。

仕事柄、日々手紙を書いている。

もし何かに共感していただけたら、それだけでもとても嬉しいです。いただいたお金は、他の方の応援に使わせていただきます。