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絵に求めるもの、活字の限界 往復書簡#26

画家・小河泰帆さんとの往復書簡26回目です。
前回はこちらです。

教育実習での「一般教養としての美術」、なかなか難しいですね。作家にとっての美術はそういうものではないから、けっこう頑張って想像力を働かせないと掴みづらい感じがあります。

ひところビジネス書の出版社が美術関連書籍をつづけて発行していたので、何冊か読んでみたことがありますよ。ビジネス書がターゲットにしているような層は、どんな鑑賞体験を絵画に求めているんだろと思って手にとったのですが、自分にはない視点のお話が多くて興味深い感じでした。求められているものを知ったからといって、じゃあその要求に積極的に答えていくのかどうかは別のお話なので、そのあたりは作家の柔軟性とか、スタンスとか、自分にとって制作がどのような行為なのかに関する問題かなと思いますけども、勉強にはなりましたね。

子供向けや初心者向けに書かれた美術入門の類も、面白いものが多いですね。知らなかったことがさらっと書いてあって驚いたり、在廊中やアーティストトークなどで絵を説明するときの言葉選びの参考になったりします。たまに近所の図書館でパラパラ読みますよ。

タシロさんは図書館司書をされていたのですよね?図書館でのお仕事ってどんな感じだったのでしょう?そしてそこでのお仕事は今のタシロさんの制作に影響はあるのでしょうか?

往復書簡#25より

図書館のお仕事はとても面白くて、いまでも好きです。
図書館の良し悪しは、選書(所蔵資料のラインナップ)とレファレンス(調べ物のお手伝い)である程度判断ができると思うのですけど、どちらも技術と経験を要する業務でかなり個人の能力に依っているので、やりがいがあるお仕事ですね。ベテラン勢に囲まれて、日々勉強という感じの9年間でした。
業務上、膨大な量の資料と接するので、気になる本と出会うと覚えておいて、勤務終了時に貸し出し手続きをしては何冊も抱えて帰りましたよ。鞄にはいつも様々なジャンルの本が入っていて、パンパンで重かったです。
冒頭に書いたような、版元が想定している読者層に自分は含まれていないような資料を面白がって読んだりするのは、司書っぽい資質かもしれないですね。染み付いてしまっています。

影響に関しては制作に限らず、生活全般のいろいろな面で大いに受けていますが、現在の絵画制作に絡めて思い出すのは、落語全集を読んでびっくりした事件ですね。
当時、演芸場で寄席をみて面白かったので、演目を知りたいと思って図書館で借りたのですが、活字で読むと全然おもしろくなかったのです。以前、往復書簡#20で書いた、演劇鑑賞と戯曲を読む経験の違いの話にも近いんですけど、落語の場合は戯曲とちがって後から文字起こししてるせいもあってか、活字にすることで損なわれてるものが明らかに多く、その致命的な感じに驚きました(資料としての価値はまた別ですよ)。音で聞くこと、目で見ることに特化して発達した話芸なので、活字とは相性がとても悪いんです。それまで自分の中に、活字信仰みたいなものが多少なりともあったのですが、活字ができることの限界を見せつけられた気がしました。

このことを通じて考えるようになったのは、世の中にあふれる大量の取りこぼしについてですね。活字にするには言語化が必要ですけど、言葉だけでは表しつくせないもの、あるいはそもそも言葉することで台無しになるものってたくさんあって、むしろ日々の生活って、そういう複雑で曖昧な感情によって回っているなと思いました。
この気付きは、そのまま現在の絵画制作につながりました。そんな領域を丁寧にすくい取るような絵を描きたいと思っていますよ。


さて次の質問ですが、作品タイトルついて伺いたいです。
私はタイトルは同じものを付けていて、番号をふって区別しているのですが、小河さんは一枚ごとにちゃんと付けていますよね。タイトルがあったほうが見やすいという一般の方は多いと思いますけど、けっこう大変な作業だと思います。制作のどのタイミングでつけるのか、どうしても思いつかない時にやること等、タイトルにまつわるお話をお願いします。