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カンボジアを生きる わたしたち ~カンボジアで出逢ったステキな女たち、男たち、そしてわたし~ 66.先生たちの事情

 正式な大学生になれたものの、相変わらず授業が休校になる日々が続いた。
 クラスのみんなは相変わらず、授業が休校になって喜んで家に帰って行く。でも中には、図書館で自習をしたりして、勉強をしようとする学生もいた。私も休校のたびに図書館に行って、いろんな本を漁った。

 クラスのみんなに対するイライラは薄れていったけど、大学の教授たちはいったい何を考えているのだ?そんな思いが膨れ上がっていった。

 ある日、私は教務課に直談判をしようと、サビーやレスマイと一緒に乗り込んだ(乗り込んだのは私だけで、サビーやレスマイは私が過激なことを言わないように見張りについてきてくれたのだと思う)。

 「先生が授業に来ないんです。これでカンボジアの未来はどうなるんでしょうか」

 当時の教務課の課長で、後に大学長になった先生はこう言った。

 「ユキ、私たちも給料は20ドル、それも数か月遅延されることもあって、その日生きていくお金を稼ぐのに必死なんだ。先生たちも辛いんだよ」

 私は何も言い返すことができなかった。

 当時のカンボジアの大学は、国立大学しかなかった。王立プノンペン大学、芸大、医大、経営大学、法科・経済大学などなど、どれも国立で、国の資金で運営されていた。学生たちから授業料を徴収する制度はなく、逆に国立大学に入る人材は「準・公務員扱い」されており、政府から奨学金が支給されていた(とはいっても、月1000リエルだったけど…。ちなみに、昔はこの奨学金で本を買ったりするお金として十分な額が支給されていたという)。社会主義時代の名残だったのだろうか。私もその奨学金の対象となり、数か月に1度、学級委員長からそのお金を受け取った。

 私はあることに気づいた。
 自分が大学にお金を払っていない以上、ましてや国から保護される形で勉強をしている以上、文句は言えないのだ。ああ、学費を払いたい。払わせてほしい。本気でそう思った。

 私が首相あてに直談判をした手紙の中に、外国人私費留学制度を作れば、私たちからお金を得て、そのお金を先生方の給料に回すことができる、という「アイディア」を書いていた。でも、その制度がまだないから、それを実行することはできない。

 教務課の先生にそれ以上反論できず、私はサビーとレスマイと事務所を後にした。大学の先生の中には、副収入を稼ぐために空いている時間にモトドップ(オートバイタクシー)の運転手をやっている人もいるという。そんな時代だったのだ。

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