魂送りのダイナミック瞑想

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私は愛する人たちの死に目に会ったことがありません。
母の時は京都にいて、叔母の時はバハマ、祖母はロンドン、彼が亡くなった時には絶賛仕事中etc…つい3日前に父が旅立ちましたが、私は清里でした。私自身の小さな選択の積み重ねの結果ではあるけれど、なぜ毎回こんなことなんでしょう。私にはわかりませんが、宇宙や祖先にはわかっているでしょう。何か必要な方位どりの係を仰せつかっているのだと思うことにします。

父は90歳で、晩年はベッドから起き上がることもできませんでしたが、大往生だと言えます。医療が進歩したこの長生きの時代では、死は悪を払うかのごとくに日常の意識から駆逐されますが、健康な時にこそ死について考えたり、学んだりすれば、自ずとどう生きていくのかという道筋が浮かび上がるというものです。

チベット仏教のゾクチェンでは「いつ、どのように身体を離れるのか」という、死に方自体が最も大事な修行の要です。自分で死期を悟り、爪と髪しか残さないで消えていくという、虹の身体になるために。真に悟りを得た人は、爪も髪も残さずに跡形もなく消えていくのだそうです。太古のエジプトでも、王位の継承時には死者の国を旅して、そこから蘇って戴冠したのです。常に死を見据えて、死と再生のサイクル、またはその輪廻から完全に離脱することを目指してこの現生での時間を使う、ということでしょうか。つまり、生まれてから死ぬまでの間「生」の一瞬一瞬が、死という最大の変容期のためのイニシエーションとなり得るのですね。

月が美しく輝やいて、満ちていく月の夜、父は静かに穏やかに旅立ちました。満月の2日前、魂のゲートが混み合う一歩手前のことです。今回は私も大人になって、父の看病にも、自分なりではあるけどベストを尽くして来れたので後悔もなく、ただ、父が楽に旅立てるように、ということだけが最大の願いでした。誰かの死は、近くにいる人たちの魂の成長を大きく促しますが、それこそが真の遺産だと思うのです。
私は清里にいてBIPS(ボディサイコセラピー)のトレーニングに参加していました。夜遅くのことで、電車もなく帰れるはずもないので、翌朝に予定していたダイナミック瞑想をしてから帰ることにしました。普通ならとっとと朝一番の電車で家路に着くのが常識的だったのかもしれないけど、もうすでに肉体にはいないのだから、急いだところで何か結果が変わるわけではないし、瞑想してから帰途につくのが私のやり方だと感じたのです。

ダイナミック瞑想が始まると、私の呼吸が風船のヘリウムガスを補填するみたいにして父のエネルギーになっていくのがわかったので、最大限に深く激しく呼吸しました。病院のベッドの上での長い寝たきり生活で、希望を見失い、絶望を心底味わったであろう父の魂が昇っていくには、ヘリウムガスの充填が必要だったのです。なるほど、だから満月よりも一歩手前に旅立ったのかもしれません。(生も死も、クライマックスはだいたい満月の頃に起こるものです。)次のカタルシスで泣いて父を悼み、ジャンプのステージではまた丹田から第7チャクラへ、そして北極星(タオの神)に向かって飛び出していくためのエネルギーを補填しました。肉体を離れたと思われるその時でも手伝いができたというのは、新しい気づきでした。いえ、もう直線的な時間の枠はとうに超えているので、それもありなんだと思います。
そして次のサイレンスのステージで、母、祖母、会ったことのない祖父、他にも私の知らない人たちが迎えに来て、父を連れて光の道を昇っていくのを見送りながら、私は祝福のダンスへと入っていきました。


サニヤシンのお葬式では、死者を祝福のダンスで送り出します。
死とはまさしく新たな門出、旅立ちで、大いなる源に還るための大切なトランジション・ポイントで、お祝いです。
お悔やみや哀悼は、生きている私たちのもので、魂にとっての死は、祝福です。肉体と内臓の生命活動は、悩みや心配、怒り、痛み、喜びや悲しみなどの感情、「生きる」と言うサバイバルの欲を作り出して、様々な経験の山脈へと人間を送り出します。ある日はなだらかな丘や平地を歩いていても、道は必ず山へと繋がっていて、その高みこそ神とつながる場所なのです。険しい山に登るのは危険が伴うけれど、そのリスクを取ることが、神とつながる確実な道です(残念ながら)。魂は肉体を持っている時しか経験と成長ができないのだから。天国が平和に満ちているのは、肉体と感情から解放されたからに他なりません。
だから私たちは、肉体を持っている間に経験できる最大限を享受した方がいいのです。その経験の質を良いとか悪いとかジャッジするには、私たちの命と視点はあまりにも短かく小さすぎます。それをもっとよく見るには、第6チャクラの松果体を活性化していく必要があります。高みから全体を見るために。

最後に会った時の父の穏やかな瞳と微笑みを一生忘れないと思います。まったくの無神論者で、死んだら灰になってお終いなんだと思っていた父でも、最後は光明の導きを得たのだとわかりました。

死には「慈悲」という言葉が似つかわしい。慈悲とは、菩薩が人々の苦しみを抜いて、楽しみを与えること、慈しみ、あわれむことだと言います。先に向こう側に旅立った魂は、生きている私たちを慈しみ、哀れんでいることでしょう。肉体を持っていることは大変なことなんだけど、生命はどんな生き物であれ平等で、神(宇宙)は、えこひいきはしないんだよ、と。

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