ナザレのイエス 偽預言者 偶像崇拝者 魔術師 私生児 堕地獄「タルムードの中のイエス」

愚かなヘブライ民よ
ガリラヤの神を崇めよ
ガリラヤの神を畏れよ
ガリラヤの神を奉れよ……

なんてわけねえだろうがいえああああ

 最近、なかなか本が読めないんだよね。本屋に中々いけないし、面白い本もあまり思いつかないから買えずにいる。
 ツイッターをのぞくと蔵書の数がとんでもないことになってる人間が星の数ほどいる。それに比べると僕は足元にも及ばないだろう。だが本をあまり読まない人に比べれば結構な数をためていると思うので、そこから一冊抜出すのも悪くない。
 あんまり歴史になぞみがない人間でも気安く(気軽に、ではないが)読める本を紹介するよ。というわけでは今日は迷著「タルムードの中のイエス」(ペーター・シェーファー、上村静・三浦望訳、岩波書店)を紹介していきたいと思う。

 イエスが神の子であるというのはキリスト教の重大な教義だが、由来を同じくする他の一神教ではそうではない。イスラームではイエスは預言者ではあっても神ではない普通の人間だし、ユダヤ教にあっては預言者であるか、あるいは預言者ですらない異端の徒か、というどちらかの立場にある。

 ユダヤ教徒の律法の集成である書物タルムードには、ごくわずかではあるが、『ナザレのイエス』(Yeshu ha-notzri)と呼ばれる人物のことを書いている箇所がある。まあ、信じたくない人間にとっては同姓同名の別人と考えた方が良いかもしれない。

 イエスの処刑という出来事により、ユダヤ教の一派としてキリスト教は誕生した。そのキリスト教がパウロの伝道活動もあり信者をどんどん増やして、元のユダヤ教の存続を脅かすようになると、ユダヤ教の方でもキリスト教が何とか異端であり、論破せねばならないという対応に追われることになる。
 そこでユダヤ教徒の学者たちは、キリスト教徒のイエスに関する伝承や、あるいはイエスが復活し、救世主となったという理論を裏返して否定することにしたのだ。

 福音書によるとイエスは聖母マリアから生まれたが、それは夫のヨセフがいまだ彼女と交わらない時のことだった。キリスト教会はそこに神の意志を見るが、この話は当然異教徒にとってはばかげたホラでしかない。そこで、イエスは実は、マリアの浮気で生まれたのだという醜聞は古代から絶えなかった。実はイエスの父はユダヤの迫害者、ローマ兵であったというような。そこから借りて、イエスその者とは言及していないが、明らかにイエスを指すであろう人物の伝承がタルムードの体系に借用されている。
 つまり、イエスは神の子ではないし、それにふさわしい出自を備えてすらいない、という命題を提示してキリスト教的なイエス像を根底から揺るがしているのだ。

 聖書によると、イエスは囚われた後、ユダヤの高官の元で裁判を受けた後、ローマ当局に引き渡される。被支配者であるユダヤ側には死刑を執行する権限がなかったので、「イエスは死ななければならない」という総意の元にローマ人にイエスの磔を強いたのだ。
 ところがタルムードでは、イエスはユダヤ人の手によって石打ちの刑に処せられ、木にかけられた。そこには、歴史的事実に基づいた妥当性などもはや存在しない。ただ、ユダヤ教的な要素によってイエスとキリスト教を裁く様子をのぞくことによって、キリスト教や他の異教徒たちとの関連を垣間見ることに成功しているのがこの本の手柄。
 まとめると、

 イエスは地獄に落ち、そこから復活した → イエスは復活してなどいない。永遠に地獄にいる
 イエスを信じる者は天国に行く → イエスの追従者たちも地獄に落ちる運命
 イエスを殺したユダヤ人は呪われるべき → イエスの処刑は正当なものであり、それを推し進めた民も正しい

 強烈な拒絶をもって、キリスト教をひっくり返しているのだ。

問 誰だキリストを殺したのは
答 俺だよイスラエルの民だよ

 という肯定によって異端に対する態度は貫かれているのである。

 タルムード中を読み進めるたび、

・破門されて煉瓦を拝みだすイエス
・魔法の呪文に使われるイエス
・地獄で糞に座らされるイエス

 とか、色んなイエスの姿が出てきて、とても楽しい。楽しいと言えば語弊があるが、イエスと言えば基本的に賛美される対象だから、珍しい。

 著者曰く、タルムードの中のイエスに関する記述は、歴史的証拠をもたらしてはくれない。イエスに関する記述はあくまで、ユダヤ教の側からキリスト教を論駁し、冒涜することだけを意図して書かれているからだ。
 そもそも、歴史上実在したかもしれないイエスのことなんて問題にならない。教義的にイエスを否定できればそれでいいのだ。そもそも、相手を説得しようとすら考えていない。
 キリスト者でもない身にとっては、ここまでイエスとキリスト教がけちょんけちょんにけなされているのを読むと逆に痛快なんだよな。僕は宗教に対する信心が浅い方だし、「いいぞもっとやれ」って思ってしまう。無論、こういうのは相手の規模がとてつもなく大きいから許される(?)ことなんだが。

 思えば、キリスト教を否定しようとする人間は沢山いた。けどそういった面々の書いた文章は、そのままの形では残ってない。せいぜい、キリスト教徒が異教徒の攻撃にさらに反論するために引用しているに過ぎない。いや、その引用した部分がとても重要なんだけど。
 後世になると、Toledot Yeshuというイエスの伝記が成立している。これもキリスト教の主張とは対照的にイエスを否定的に描いていて、かなり気になる内容だが本書ではぽっと触れられているだけなのが残念だ。
 この手の本にはよくあるけど、直訳っぽい文体なので普通の文章を求める人にはわかりにくいかもしれない。僕は原文のノリを気にする方なので、それはかえって嬉しい。

 英語wikiをちょくっと読んだが、タルムードにはさらにムハンマドを否定する記述もあるという。これもかなり気になるのだが、まだ詳細を調べてはいない。