人間だれもが望んで生まれてきたのではないかとふと思った話

ふと思いかえてしてみると反抗期に使った「生まれたくて生まれたわけじゃねぇ」というセリフは自分の存在や生き方を責任転嫁する、親にとっても子にとっても非常に高い攻撃力を誇る言葉であった。最終的に親はふざけんな!と拳の尖ったところでゲンコツを喰らわせてくるというのがお決まりのパターンだが、親は親で返す言葉もなかったわけである。

そんな私も40を過ぎて子供が育ってくれば当然そういう言葉を浴びる日も来るのだろうと思っていたわけだが(いや、女の子だしそこまでは無いか・・・あるのか?)、ある日ふと思い出した話があったのである。それもまたよく聞く話だが、人として生まれてきた我々は2億の競争に勝って生まれてきた、我々は生まれた時から勝ち組なのだという話である。多感な思春期の心は巧みに都合の悪い話を避けるため、その話は全く心に響かなかったのだが、保健体育での話と相まって記憶には残っていたのである。

勝ち組か負け組という話はさておき、私がこの話を思い出して思ったのは、この生まれてきたというのは実はただ記憶がないだけで生まれたくて生まれたのではないか、という話である。もちろん記憶はない。記憶はないが、しかし我々が生まれるために激しく競争しその権利を得たことは、この地球上に人として存在している以上明らかである。つまり生まれる以前の我々は競い合ってゴールに突き進む意志があったと思うのである。

もちろんその意志は自分の意志ではないと訴える人はいるだろう。むしろ殆どの人がそれを意志とすら認めないのではないかと思う。しかし自分の意志というのはどこまでが自分の意志と言えるのだろうか。

例えば幼少期によそ見をしていて迷子になった記憶のある人はいないだろうか。別に幼少期でなくても、なにを考えてそうしたのか記憶は無いが、なぜかそうしてしまって非常に嫌な目にあった、なんてことはいくらでもあるのではないだろうか。

しかしその当時、迷子の切っ掛けとなったよそ見した意志は覚えていないにも関わらずその当時の自分を含めて自分という認識なのではないだろうか。果してそれは自分の意志でよそ見した結果ではなかっただろうか。

もし生まれる以前の意志が自分の意志とすることができないのであれば、その境界は何処にあるのだろうか。もしそんな境界があるならば、その境界は自分と自分以外を分ける境界でもなければならないのではないだろうか。そう考えると我々は生まれる以前も自分は自分であり、まったく記憶にはないが生まれたいという強烈な意志を持っていた、という方が私には自然に思えたのである。

だからと言って自分に生まれてきた責任があるとか、そうは言っても生んだ親の責任だとかいう話を結論したいわけではない。我々は勝ち組だ、自信をもって生きて行こう!なんて話をしたいわけでもない。

ただ自分が2億もの競争相手と競ってまで生まれたいという意志をもっていたのだと考えてみた時に、そうか、自分は生まれたくて生まれてきたのだな、と不思議な納得感が得られた、そんな他愛もない話である。