見出し画像

ドキュメンタリー映画のようなお鮨を、今まで握ってきたんだなと思った。【大島新監督と佐渡島さんの対談レビュー。】


今、僕は無職で、15年間鮨職人をやってきたけど、この2月にアレルギーで魚が食べられなくなり。立ち上げを手伝っていた飲食店も世界情勢により、めちゃくちゃ暇で、無職となった。無職は3回目で、まぁまぁ慣れてるが、魚食べられなくなったのは、痛い。

「魚が食べられないこと」の意味を広げると大変なので、それ以上の意味を繋げないようにしている。

例えば、鮨がもう握れないこと、魚が食べられないと旅も楽しくないこと。釣った魚をその場で食べるキャンプも行けないこと。

「あー、あれもこれもできない世界で、どう生きていけば良いのだろうか」

単純に魚が食べられないのに、その意味を広げ続けると、未来への不安も無限に広がる。でも、実際の僕は、魚が食べられなくなっただけで、そのほかに失ったものは何もない、とも思う。

未来を見つめると不安が大きくなる。過去を振り返るとどうか。きっと、15年仕事してきた中で、僕は「鮨を握ること」を通じて、「鮨が握れること以上のこと」を得てきたはずで。それって失ってないんじゃね??とも考える。

例えば、思い出とか経験とか、技術とか、仲間とか。


画像2

この無職の数ヶ月は、未来を振り返るのはやめて、過去を振り返り、今に集中して、誰かとおしゃべりしながら。それが、何かを、ぼんやりと見つめてきたような時間だったなと思う。


今年から僕は、コルクラボというオンラインコミュニティに参加していて。
その流れで、佐渡島さんと大島新監督の対談をyoutubeで見た。

(対談のスクリプトと動画はここに)


ぼんやりしていた、「鮨を握ることでやってきた、それ以上のこと」に答えが見つかった。

「僕は仕事を通じてドキュメンタリー映画を撮るようなことをやってきて、これからもそういうことをしたい。」

と言うことがわかった。過去を振り返ると、未来への道の輪郭も見つかるのが不思議だ。

前に紹介した記事から引用すると、この辺とか。

佐渡島:
大島さんにとって、ドキュメンタリーの魅力を言葉にするとしたら、どう説明しますか?
大島さん:
あえて一言で言えば、ドキュメンタリーは「未知なるもの」を撮影して、届けるものです。同じ被写体を撮るにしても、取材者の視点次第で未知なるものを引き出すことができる。そこに面白さがあります。逆にいうと、「自分じゃないと撮れないもの」がないのであれば、やる必要はないと思っています。

自分が言葉にできないことを、言葉にしてくれる人に出会うのは、なんて気持ちが良いことなのだろうか。

今まで、言語化して、狙ってそう言うことをしたいと思ったことはないけれど。

例えば、ホタテのお鮨を握るにしても。

スクリーンショット 2020-06-18 9.36.27

できるなら、誰かにとって新しいホタテの味に、なればいいと思うし。できるなら、日々、そういう未知なる「何か」に遭遇したい。

スクリーンショット 2020-06-18 9.35.50

僕も、仕事の面白さはまさにそこだった。今日握るホタテは、昨日のホタテとは違う個体で。概念的には、そこには毎日「未知なるものなる可能性」が潜んでいる。

そういう意味では、四季を通じた魚たちが、毎日「日々の未知」を運んできてくれていた。その「何か」に気付けるかどうかは、自分次第。

ドキュメンタリーは、取材者と被写体の人間関係が、否応なくカメラに写りこみます。取材者が何を話す人間かで、同じ被写体であっても、撮れてくるものが、全然違うんですよね。そこは、すごく大事だと思っています。

料理人と食材との関係もまさにこれ。

「今の時期のホタテは、まだ身が薄いから、スパイスとオニオンで、味を足して行こうかな。バルセロナで食べたカルソッツ(長ネギの丸焼きBBQ)のロメスコソースみたいな感じで。」

画像1

自分の経験によって、対象の未知なるものを引き出せる可能性が変化する。

「何が合うかなー??」と頭の中を探すというよりは、自動的につながっていく感じ。市場に行って魚を見ていると、今日のコースがイメージできていく感じ。

多分、よい取材も、用意してきた質問ではなく、相手の言葉に対して、その場で自動的に思い浮かぶ言葉で、進んでいくんだろうな勝手に想像する。

そういう、共同作業の中で出来上がった作品が、誰かに伝わる面白さについても大島監督の話が参考になった。

同じドキュメンタリーでも、見る人によって全く違う感想を持ちます。そこには自分のバックボーンが必ず関わってくるんですよ。

この解釈を聞けるのが、ドキュメンタリーの作り手として、一番の面白いところで、僕がドキュメンタリーをやる醍醐味の一つなんです。

ここの面白さに関しては、僕はちょっと違う。見る人によって全く違う感想を持つことではなく、言語化しなくても、伝えたい「何か」がコンテクストとして伝わる瞬間があって。そんな時間が楽しかった。

例えば、20種類の魚を用意して。「あぁ今日はサワラがいい感じだ」と思っている日に。言葉は交わさなくても「今日、サワラが特に美味しかった!!」といってくれる瞬間とか。
何年もお付き合いさせてもらっているお客さんに、ちゃんと自分のスタイルが伝わるのは、ものすごく楽しかった。

画像4

なんだ、ちゃんと伝わるじゃん。

と思って。それが、一番楽しかったことかなー。あとは、そういう経験が増えると「喜んでもらおう!!」という誰かのことを考えなくても。


自分が食材に集中して、何かを発見し続ければ、その発見が誰かにとっても嬉しいことなんだとわかるようになって。より自分の役割がわかった気もする。

伝えたい「何か」を伝えるための技術として、鮨が握れることが利用できた時は、お鮨握れてよかったなーと思ったりした。

ずーーーーーーーっと、お鮨も料理も、虚構とか創作とか。そういうジャンルだと思っていた。「今までにない、新しい何かを生み出さなきゃ」(映画や小説みたいなもの)と勝手に思っていたけれど。

自分にとってそれは、大島監督が話すドキュメンタリーのそれだった。

そんなことを僕は、仕事を通じてやってきて。
また、そんなことがしたい。
撮りたいドキュメンタリー映画の対象を見つけるように。
誰かと、何かと、出会いたい。

画像6

画像7

最近、遊びで野菜でお寿司握ってるけど。手仕事は心が落ち着くことがわかったので。どうにか、何かしら続けて行こうと思うようにもなってきた。

もちろん、ドキュメンタリーな視点で。








サポート、熱烈歓迎です。よろしくお願い致します。