悲しみに飲み込まれていても、見上げた夜空が美しいと感じられること。
悲しくても傷ついていても、美しいものを美しいと感じられる人に僕はなりたいし。そういう人にずーっと憧れている。
もうすぐ10年がたつ、東日本大震災。
「今まで言えなかったんだけど、避難所で見上げた月が、すんごく綺麗だったんだよね」
津波で家を流されて家族とも合流できず、お互いの生存の安否も知らないような、不安な夜にも、月が綺麗だったと感じられる人に、僕は憧れる。
3年間過ごした気仙沼ではそんな美しい話をたくさん聞いた。
「あー、それ女川のおばさんも同じこと言ってた」
そのとき、おなじ話を聞いたとなりにいる旅人が、違う場所の、おなじ話を教えてくれて、1日がすぎていく。
全く、いい時間だった。
あの時、その人が、なぜ夜空を見上げたのかはわからない。なぜ、突然、月が綺麗だった話を、してくれたのかもわかならい。僕がよそ者だから、月が綺麗だったことを教えてくれたのかもしれないし、ただ、ふと思い出したのかもしれない。
周りに気を使うから言えない気持ちもすごくわかる。「それどころじゃないでしょう」って気持ちを害する人がいることも想像できる。
僕はその話を聞きながら、東京にいる先輩がくれた「大人ってなんだ」ってことを思い出していた。
「どれだけ傷ついていても、悲しくても、見上げた夜空の星が、美しかったら美しいって言えるのが、大人なんじゃないかな」
東京時代の寿司屋のお客さんが、デザイナーをやっていて、僕はその人の仕事の話や音楽の話がとても好きだった。
その時、自分の仕事がうまくいってなくて、上司に怒られまくってて。ほんとに死にたい気持ちのときで。癒されたかったり、流れを変えたかったり。
よくわらかないけど、その人に会いたくて。わざわざ時間を作ってもらって、白金のアトリエに会いに行った。
「美味しいものも美味しいって思えないし、なんか自然を見てもなんとも思ないし」
みたいな話を僕がした時に、その「大人の定義」を教えてくれたのだった。
「ガキなんだよ」「大人になれよ」ってただ、それだけの話だった。悔しかった。でも、こんな日に、励ますでもなく怒るでもなく。見上げた夜空の話をしてくれる先輩を選んだのは大正解だった。
今でもその人はずーっと輝きつづけていて。本当に尊敬している。
それから、3年くらいかな。
「今まで言えなかったんだけど、避難所で見上げた月が、すんごく綺麗だったんだよね」
気仙沼で、その、月のはなしを聞いて。
「あー、先輩のはなしにでてくるような、かっこいい大人が、ほんとうにいたよ」と思って、泣いた。
そして、2020年。東京。今の暮らしの中では、夜空を見上げ、星を見つめる夜は少ない。そもそも街灯が明るすぎて星はほとんど見えない場所に住んでいる。
見上げる星空がない時も、悲しい時がある。そんな時にでも、いつでも見つめられる、美しさの基準が欲しいと思っていた。その東京で、星空を見上げるような時間を僕は見つけた。それが、ヨガだ。
今、ヨガが日課になっている。ヨガの中では、呼吸を観察する時間がある。それが、星空を見上げる時間と似ている。
太陽が出ている時は見えない星が、暗くなるといつのまにか輝くことのような。あるいは、星座を知っていると、無数の星空のつながりに意味や物語を見出せることのような。
ヨガってそんな時間なのだ。
気づいても気づいていなくても、生きている限り、僕の呼吸と拍動は、絶え間なく繰り返している。明るい時間にも、星はずーっとあるのに、僕はそれを感じることができないことと、それは似ている。
太陽が沈んでから星空を眺めるように、目を閉じて、呼吸を眺める。だんたんとクリアになっていく夜空の星のように、そこにさまざまな気づきが生まれていく。
星座がつながるように、呼吸のつながりにも意味や物語があることを知り、その事実におののく。(これは比喩ではなくて、呼吸にもいろいろな種類があって、さまざまな情報を知ることができるのだ。その話はまたいつか。)
星も呼吸も伝えたいことがあるわけではない。ただ、そこにあるだけ。それでも、こちらが頼りにすれば、たくさんの情報を得ることができる。
呼吸と仲良くなりたい。呼吸の美しさに、気がついていたい。悲しみに飲み込まれそうな時でも、その美しさを認められる自分でいたい。
星座の地図みたいな、呼吸の地図がどこかにあるはずだ。どこに行けば、その地図が手に入るのか。世界地図に載っていない場所が、その地図にはしめされているはずで、僕はいつかそこに行ってみたい。
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