恐怖と喜びは近い場所にある

  高いところが怖い。それは高さそのものというよりは、高さに興味を持った自分が、興味にまかせて無意識に飛び降りてしまうんじゃないかという恐怖だ。目の前のテーブルに出された食べ物を、思わずぱくっとつまみ食いしてしまうように。つまり自分自身の中にある何かが怖い。何をしでかすかわからない自分の本性のようなものが。

 穂村弘さんの『鳥肌が』を読んだら、同じようなことが書かれていた。「本当に恐れていたのは自分自身の中の自分をぽいっと捨てちゃうフラグだったんじゃないか」。まさにそんな感じだ。

 この本は「こわいこと」についてのエッセイ集で、他にも、他人に声をかけるのが怖い、という話もあった。奥さんは外国に行って、言葉もろくに通じないのにどんどん人に話しかけるが、どうしてそんなことができるのか、と穂村さんは驚いている。

 これもよくわかる。自分の旅行を考えてみても、たいてい妻が先に誰かに話しかけて、問題を解決したり、旅の展開を進めたりしていく。だから、自分で悪戦苦闘する機会がなくなる。というのが、最近の課題なのだけれど、要は人に声をかけるのが怖いことが根っこにあるような気がする。

 電車で席を譲るのをためらってしまうのも、席を替わりたくないからではなく、声をかける勇気がないからだろう。もし瞬間的に席が入れ替わるスイッチがあれば、即座にそれを押すと思う。他人に声をかけてしまうと、その場から逃げられなくなってしまうことを恐れているのかもしれない。

 要するに、人が怖いのだ。でも、ただ怖いだけではない。「他人に声をかける恐怖の正体は、憧れの裏返しなのだろう」と穂村さんは書く。きっとそうだと思う。声をかけるまでにハードルがあるからこそ、思い切って声をかけて、メッセージや思いが通じたときの喜びは人一倍大きい。

 恐怖と喜びは、かなり近い場所にある気がしてきた。そう考えると、恐怖をうまく活かして、生きていくという考え方ができるかもしれない。実際、穂村さんは人に対する恐怖がありながら、歌人として活躍している。恐怖を感じたときに、その裏にある喜びを思い出せるようになりたい。そんなことを思ったのだった。


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