あるものを使って、ぜいたくに暮らそう

人は退屈に耐えられない。いくら暇があっても、部屋で何もせず、じっとしていることはできない。それはどうしてなのだろう? 

暇と退屈の倫理学』は、そんな「暇と退屈」をめぐって、人類の歴史や、過去の哲学者が考えた理論をたどる。そして、「退屈から逃れられない私たちは、ではどうやって生きていけばいいのか?」を考え、結論を導き出す。

その結論は‥‥と、本の最後の章を先に読もうとすると、「この結論だけを先に読んでも意味がない。本書を通じて暇と退屈についての考察の過程をたどることで、自分なりの考えを見つけることが重要なのだ」と書かれていて、おっしゃるとおり。たしかに結論がどうだというより、暇と退屈を切り口に、内容盛りだくさんの本だった。

たとえば、人間はじっとしていられない。刺激や興奮、つまり気晴らしを欲しがる。ウサギ狩りに行く人に「ウサギが欲しいなら」と言ってウサギを手渡すと怒ってしまうように、人は実際のモノではなく、気晴らしを求めているのだ。

気晴らしには、危険や負荷が含まれていなければならない。これは人類の歴史にも関係している。狩猟採集の時代には、いつも新しい場所に移動して、そこで生きていく術を見つけなければならなかった。そのため、人間の感覚や能力は常に全開だった。

それが気候変動により、定住を強いられるようになった。食糧が不足して貯蔵の必要が出たためだ。定住すると、それまで全開だったセンスや能力を持て余す。そこで文化や芸術が生まれた……

この話は納得できた。博物館で先住民のめちゃくちゃ細かい刺繍の入った服などを見たとき、「寒さをしのげさえすればいいものを、なんでここまで装飾するんだろう?」と疑問に思っていたけど、それはセンスを持て余していたからだったのだ。そのように、定住以来、人間は「暇と退屈」を自分たちで何とかしなければならなくなった。結果的に、それが戦争を生み、消費社会を生んでいる。自分なりの理解を交えると、そういうことだろう。

これに対して、ある哲学者は「決断せよ」と言った。何でも自分で決断していけば、退屈から逃れられると。でも決断して、周りの声をシャットアウトすることで退屈から逃れたという気になっても、結局、時間が経つとまた同じところに戻ってくる。

「思考せよ」という哲学者もいる。しかし、人間はそもそも思考しなくてもいいような状態を求めているのだ‥‥。と、いろいろ考えさせられることが、たくさん書いてあったのだけど、この本を読んで自分なりの結論をまとめるとこうだ。

「あるものを使って、ぜいたくに暮らそう」

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