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やっぱり僕はフィリピンのサトウキビ農家のために生きたい。

どうも,フィリピンでサトウキビ農家のための社会起業を考えています,タオです!こないだある人に「タオ君がサトウキビ農家の現状についてどんな風に感じてその人達のために働こうと思ったの?熱意が伝わってこない。」と言われました。

「ええええ。熱意ないわけないやん,こちとら人生かけてフィリピン飛び込もうとしたからコロナに巻き込まれてフリーターやっとるわ!」って最初は思ったんですが,僕がサトウキビ農家のために生きようと思ったのは1年半前の話。なんで人生かけて彼らの現状を変えたいと思ったのかが言語化できない。。
なんでだっけ?って思ったので振り返ってみました!

誰かのために生きたいから国際協力

僕は大学3年生のときに国際協力の道を志しました。理由は「自分が一番うれしい瞬間は他の人のために何かをして喜んでもらうことだ。」って思ったから。世界で一番困っている人のために働くって,こんなにやりがいのある仕事はないだろう!と意気込んで国際協力の世界に飛び込みました。

一番最初にした国際協力の仕事はJICAの水産開発受託研修の短期雇用支援員。この研修のプロジェクトリーダーが研修員のために誰よりも準備して,体ボロボロになりながらプロジェクトを作っているのをみて,改めて「誰かのために生きる」っていうのが本当かっこいい,こんな風になりたいと思ったのを覚えています。

https://thefunnel.jp/summaries/5a41ff3266756e1ce08f4161?page=3

↑僕の国際協力像であるSKET DANCEのボッスン。
僕は未だに国際協力は「友達が困ってるなら助ける!」の延長だと思ってます。

休学して飛びこんだフィリピン,サトウキビ農家のためのプロジェクトを立ち上げる

「困っている人を助ける」プロになるため,休学を決意してフィリピンに飛び込みました。英語がほとんどしゃべれなかったので,英語の勉強と国際協力の現場を知れるフィリピンのDETiという学校で修業を積むことに。

ある日学校の授業で,国際協力の現場を見るということで島の山奥へ連れて行ってもらいました。そこでは今まで見たことのない,全く違った風景が広がっていました。

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なんだここ。。ここは本当にフィリピンか。。!?

一面のサトウキビ畑と遠くに見える海,真っ青な空。僕は一瞬でこの場所に恋に落ちました

はじめは”国際協力の勉強”のために来ていたから,事前に作った質問票を基にいくつか質問をします。調査を重ねるうちにこんなことが分かってきました。
- 彼ら収入は著しく低いこと。(月2000ペソから4000ペソ(1ペソ約2円))
- サトウキビの収穫期以外は収入を得ることがとても難しいこと。

彼らはお金が十分ないため,育てているホワイトコーンを主食にして,ドライフィッシュを主なたんぱく源としていました。彼らは「私たちだって米や肉が食べたい。」と言いました。

困っている人を助けたい!と思って飛び込んだ現地。勉強だけして満足して帰るのは嫌だ!と思って僕は語学学校オーナーに頼んで彼らためのプロジェクトを立ち上げました。

彼らと一緒に,良いもの,良い未来を創りたいという思いを込めて,Chada(現地の言葉でとても良い) project

このプロジェクトでは,子どもの世話で村の外にいけず,働くことができないお母さんが家の中でも仕事ができれば良いと思って,彼らと一緒にお土産を作り,リゾートや語学学校で販売しました。(プロジェクトのサイト(https://chadaimaginus.wixsite.com/chada))
食べているコーンが収入になって,そのお金で米や肉が買えたらいいなと思ってコーンコーヒーやコーンティを開発したり,観光客とサトウキビ農家を繋ぐ架け橋のようなものを作りたくてミサンガを開発したりしました。

プロジェクトを進めるうちにさらに見えてくる現状,プロジェクトの力不足

活動を手伝いに来てくれたインターンと一緒にプロジェクトを1年ほど運営していくうちに,彼らに還元できる収入もだんだん増えていきました(プロジェクトとしてはずっと赤字だったんだけど。。)。現地の言葉を学んで,サトウキビ農家とはもっと仲良くなりました。僕は,彼らがもっと好きになって,彼らを大切にしたいと思うようになっていきました。

プロジェクトを進めていくと,最初見えなかった彼らの現状が見えてきます。

ある日,プロジェクトメンバーの一人がある事情で病院行かなけれならなくなりました。フィリピンの病院はお金を払わないと利用することができませんが,彼女が必要だった金額は5万ペソ。彼女は多額の借金を抱えてしまいます。

月収2000ペソほどの彼らがこんな大金を返せるわけないじゃないか。。
プロジェクトの力不足を痛感しました。プロジェクトが彼女にそのとき供給できていたのは300ペソ。メンバーが本当に困ったときに全く支えになってないじゃん。。

いろんなことを考えました。自分の力不足が,めちゃめちゃ悔しかった。

なんで一生懸命働いても,努力しても,必要最低限の生活を手に入れることできないんだろう。

5万ペソ(10万円)。日本人から寄付を集めるのはおそらくそんな難しくないだろう。僕が日本でバイトをすれば,一カ月くらいで集めることもできるだろう。でも,日本で集めたお金をその人にポイって渡す,そんなことやっていいのか。。?現地の人たちの関係を壊しやしないだろうか。。?
プロジェクトがもっと彼らの支えになる収入を供給できたらいいのに。。。。

このとき,「大好きな彼らが十分に収入を得られる仕事をあの場所で作りたい。もう彼らがこんな風に苦しまなくて良いように。」って思いました。だから大学卒業したらフィリピンに戻るって改めて思ったんだ。彼らのために生きたいって思ったんだ。

(結局そのとき僕は悩みに悩んだ末,フィリピンネグロス島の中でのみ,現地の人の協力を借りて,寄付を募りました。それなら信頼関係も壊れないし,みんなが理解してくれると思ったから。)

大学に帰ってからの1年間半,熱意をおいてきてしまっていた。

うん。振り返りって本当に大事ですね。こんな大事なこと僕は忘れたまま,フィリピンに飛びこもうとしていました。。考えさせてくれるきっかけをくれたことに感謝。

大学に戻ってから,目の前のこと(卒論や学生団体)と,自分のキャリアについて考えることが増えていって,僕はあのときの気持ちを忘れてしまっていったんだなと思います。何をやっているんだ。彼らにも,あのときフィリピンで働くと決意した自分にも頭があがらない。

先日サトウキビ農家の村近くにある学校 の先生と連絡をとりました。あの村の子どもたちは,「先生,タオはいつ帰ってくるの??」って何度も聞くそうです。まだ僕のことを覚えてくれてるんだね,ありがとう。待っててね。君たちの生活のために全力を尽くすからね。
あぁ早く戻りたい。。


とはいえ,今はフィリピンにいけないどころか日本にいる他の人にも会えない状況。何をするのが最善だろうか。

たくさん考えないと。
思考をまとめて,次はコロナ禍僕に何ができるのかを書いてみようと思います。

ありがとうございます! 現地で大切に使います!