アーレント謎の概念"natality"=「出生」?:最近公刊のアーレント本も含めて整理する&「反出生主義」との関連は?NO.2


 アーレント謎の概念"natality"について海外の研究論文を踏まえて整理していきます。思った以上に長くなったので別の記事として投稿します。これまでの議論(NO.1)を読んでからこちらの記事(NO.2)を読んでいただけると幸いです。
(NO.1はこちらから:https://note.com/taoki0046/n/n794cec9ca897

               ***
別の執筆原稿があって更新が遅れましたが、続きを書いていきます。
今回が第2回なので、あと数回で終わる予定です。
(書こうと思い立った当初は、一本の記事で一度に書き切ってしまおうという思っていましたが、なんという見切り発車だったんだ、、、笑)

・補論ーー〈birth(natality)=非-生物学的な誕生〉?

 これまで、natality概念に対する2つの解釈を検討してきました。

1. natality=生物学的な誕生
2. natality=非-生物学的な誕生

1. が初歩的な誤読であることはこれまでの議論およびトチュニッグ論文から明らかであると言ってよいでしょう。2. は、語の形として〈natalであること〉を意味するnatalityという語とフィットしない感じはしますが、まあ今のところ検討中というところです。

また、明記し忘れましたが、アーレントにおいては”natality”だけでなく”birth”も生物学的な誕生を意味していません。トチュニッグ論文に戻る前に、少し立ち止まって、この点を突っ込んで議論したいと思います。
 まず、今のところ、〈natality=非-生物学的な誕生〉という解釈は保留中なので、少なくとも次のことが言えます。

birthは非-生物学的な誕生のことである〈birth=非-生物学的な誕生〉。
もしかしたらnatalityも非-生物学的な誕生かもしれない(保留中)。

ここでは、このことを、〈birth(natality)=非-生物学的な誕生〉と表現しますが、natalityを括弧でくくったのは、保留中、検討中という意味なので、私が〈birth=natality=非-生物学的な誕生〉という解釈を採用している、ということではないのでご注意ください。

 わざわざ立ち止まってみるのは、〈birth(natality)=非-生物学的な誕生〉というアーレントの考え方がとても奇妙に思えるからです。
というのも、これでは、人間だけが誕生するとアーレントは考えているように見えますし、「鳥も魚も虫も哺乳類も誕生してくるだろう!」というツッコミがすぐ頭に浮かんでくるからです。

こういうツッコミは大事なので頭に留めておくべきですが、「だからアーレントは間違っている!」とか「ここはちょっとアーレントの議論を修正する!」というふうに、安易に結論を出さないでおくことも大事です。どんな哲学書(に限らないでしょうが)を読む場合にも、「この人なんかヘンなこと言ってるけど、もうちょっと付き合ってやるか」or「この人ならこれくらいのツッコミは想定の範囲内で書いているだろう」という心持ちで読み進めるといろいろ"ごりやく"があると思います。

なので、〈birth(natality)=非-生物学的な誕生〉についてもそのような心持ちで読みたいと思います。問いのかたちにするならば、

なぜアーレントは人間だけが「誕生」するなどと論じるのか?

くどいようですが、〈birth(natality)=非-生物学的な誕生〉、「人間だけが誕生する」という議論はそれだけ奇妙に見えるので、もう一度『人間の条件』(1958)から引用しておきます。

「自然と、あらゆる生き物が自然によって押し込められる円環的運動は、我々が理解するような誕生も死も知ることがない」(HC: 96f.)。

また、同じく『人間の条件』の別の箇所では、神の(超越的な)永遠、ギリシアの神々の直線的な不死性、自然の円環的な不死性に対して、人々の生が次のように特徴付けられています。

「人々の可死性が根差すのは、個々の生が誕生から死までの、見分けのつく物語を伴って生物学的な生から出で立つという事実である」(HC: 19)。

こうした記述を読むと、やはり、アーレントは人間だけが誕生すると論じているように見えます。もちろん、鳥や魚や虫や哺乳類が卵や母体から生まれてくることをアーレントが知らなかった、などということはありえません。それにも拘らず、なぜアーレントはこんな議論をするのでしょうか?

↑↑に引用した2箇所もそうですが、こういう話をするときのアーレントはだいたい、古代ギリシアやポリスのことが念頭にあります。というか、議論の端々でそう書いてあります(ただし、とりわけnatality論の場合、ユダヤ、キリスト教との関係もありますが、ここではひとまず置いておきます)。
このことを考慮に入れると、「人間だけが誕生する」というアーレントの奇妙な議論については、次の3つの読み方が考えられます。

1.  アーレントは古代ギリシアやポリスの人々の考え方を紹介しているだけ
  で、アーレント自身がそう主張しているわけではない。
2.  アーレントは古代ギリシアやポリスの人々の考え方に乗っ取って自分自
  身の主張している(なので、"現代の私たち"は、こういうアーレントの
  ギリシア偏愛は脇に置いてアーレントを読むべきである)。
3. アーレントは、あえてヘンな議論をすることで、人間にとっての「誕
  生」の意味を問うている。

1や2の読み方は、「"現代の私たち"にとって何が常識的か」ということを勝手に想定して、"常識的な発想"に合致するものは「アーレント自身の主張」として取り入れ、そうでないものは「古代ギリシアについての記述」や「アーレントのギリシア偏愛」として切り取る、という読み方なので、説得的ではありません(ちなみに、研究者でさえこういう読み方をする人がいますが、その常識は誰がどう決めたの?常識の外で考えようとするのが学問じゃないの?と素朴な疑問をぶつけたくなります)。

少なくとも1や2の読み方には次のように問い質すことができます。

それが古代ギリシアの考え方や世界観に関する記述やそれに依拠した議論であるとしても、なぜアーレントはそんなことをしたのか?

「アーレントは古代ギリシアが好きだったから☆」では答えになりません。むしろ、アーレントは、古代ギリシアの考え方や世界観について論じることで、その"ヘン"さや奇妙さでもって、人々の「誕生」の意味を問い質しているのではないでしょうか?このように解釈することが、最も景色の広い読み方だと思います。すなわち、3の読み方です。

もう少し譲歩的に考えるならば、
鳥や魚や虫や哺乳類が生まれてくることをも"誕生"と呼ぶとしても、人々にとって、自分たちの「誕生」と鳥や魚や虫や哺乳類の"誕生"は同じ意味を持つのかどうか。異なる意味があるとして、それは何か?
人々が「誕生」することにはいかなる意味があるのか?ーーそういう問いとして、〈birth(natality)=非-生物学的な誕生〉(人間だけが「誕生」する)という奇妙な議論を捉えることができます。

こういう議論は、見方によっては、とても厳しい、さらに言えば残酷な議論にも見えます。
なぜなら、先に引用した箇所からも伺えるように、こうした議論は、「見分けのつく物語を伴う生」(ビオス)の両端だけが「誕生」であり「死」だと考えているからです。「生物学的な生」(ゾーエー)から出で立つことができない生は、「誕生」することも「死ぬ」こともできない、と言っているわけです。
しかも、アーレントは人間であれば必ずビオスを生きると考えているわけではありません。ゾーエーを、あるいは様々な状況でただ生き永らえるだけの生を生きてしまう場合を描いています。

「ビオスからこぼれ落ちた人間はどうすればいいんだ!アーレント厳しい!」という不満が聞こえてくるようですし、実際にそういう類いのものは"あるある"だと言ってよいでしょう。

しかし、次のように考えるならば、どうでしょうか。
既に少し触れたように、アーレントは人々の誕生を「世界」との関係で論じていますが、例えばこの点については次のように考えることができます。世界との関係が完全に断たれているところーー例えば、絶滅強制収容所ーーで生まれ死んでいった赤ん坊の"誕生”は、そうでない赤ん坊の「誕生」と同じでしょうか。同じであるor同列に扱うべきだするならば、極論、人間はどこでどう生まれようと関係ない、という話にもなりかねません。『全体主義の諸起源』でアーレントが洞察したように、人間は人間をどうとでもできてしまう、ぶっ壊せてしまう生き物なわけですが、人間の「誕生」についても同じです(この点は、「人間の条件」というアーレントの独特な語法とも関わってきますが、詳しくは、次回or次次回の議論に回しましょう)。

こうしたことを背景にしたとき、アーレントが「誕生」の意味を人間的なものとして問い質すことを、"単にビオス/ゾーエーのギリシア的二分法に基づく厳しい議論"として理解できるでしょうか?
 「誕生」の意味を問い質すアーレントの議論はむしろ、人間の生、ビオス(あるいはゾーエーでさえ)、そしてその端緒としての「誕生」が、ぶっ壊されうるものであること、ぶっ壊されることの悲惨さに裏打ちされたものとして理解すべきだと私は思います。それは、誕生が過度に歪められたり壊されたりしないよう「気遣う」ための議論でもあるでしょう。

現代の文脈に置き直すならば、「赤ちゃん工場」のことを考えてもよいかもしれません。また、もはや単なるSFではありませんが、ベルトコンベアーの上を流れる無数の試験管の中で胎児が育てられいる光景を、あるいは一人ひとりの「誕生」を経済政策や国家政策のための「出生率」という観点からしか扱わなくなった近未来を、想像してみてもいいかもしれません。「誕生」を歪めたり壊したりするような状況はいくらでもーーおそらくアーレントが生きた時代よりもたくさんーー考えられます(なお、アトウッド『侍女の物語』はこういう単に残酷なストーリーではありません、念のため)。

以上の理由から、〈birth(natality)=非-生物学的な誕生〉(人間だけが「誕生」する)というアーレントの奇妙な議論は、むしろ人間的な「誕生」の意味をめぐる問いとして、重いアクチュアリティを帯びていると考えられます。

ちなみに、少し脱線しますが、こういう手法はアーレントの十八番です。
例えば、アーレントと言えば「労働(labor, Arbeit)」と「制作(仕事, work, Herstellen)」の区別で有名ですが、この区別にはすぐ「そんな区別はできないだろう!」という趣旨の反論が条件反射的にいろんな具体例と共に飛んでくることがよくあります(笑)。
しかし、アーレントの主眼はむしろ、近代以降この区別がごっちゃになっているということに置かれていますし、また、「この区別ができていた時代に戻ろう!」などと主張しているわけでもありません。古代ギリシアを含め、失われた時代の復興や再現をすべきだとかそれが可能だとかいう主張をアーレントはしていません(cf. 『過去と未来の間』「プロローグ」)。

時として挑発的にも見えるアーレントの様々な区別や語法は、むしろ様々な意味を問い、探るための、発見術的なものだと言ってよいでしょう。
『人間の条件』の「労働」と「制作」においても、この区別から見えてくる様々な意味が探り当てられていました。逆を言えば、この区別への反論として有効なのは、これでは区別しきれない人間の営みの具体例を挙げることではなく(そんな具体例が挙がることなどアーレントは百も承知でしょう)、この区別によって見えなくなってしまう意味を論じることだと思います。

同様に、〈birth(natality)=非-生物学的な誕生〉(人間だけが「誕生」する)というアーレントの奇妙な議論も、むしろ人間的な「誕生」の意味をめぐる問い、および発見術的な語法として理解できます。

人々が「誕生」することにはいかなる意味があるのか?
アーレントは、自ら立てたこの問いに、どのように答えているのか?

管見の限り、こうした問いに明確な回答を与えられる研究者は、私自信を含め、未だ一人も存在しません。
もちろん、いろんなヒントはあります。「世界との関係」もその一つです。トチュニッグ論文はそういうヒントを整理したものでしょうし、この記事もそういうものとして書いています。

また、natalityを「非-生物学的な誕生」と同一視しようと、〈natalであること〉として解釈しようと、それが人々の「誕生」の意味(&「政治」との関わり)をめぐるものであることは、変わりありません。無論、だからと言って曖昧なままにしていいわけでもありませんが。

そろそろトチュニッグ論文に戻りますが、以下に続く議論も、そういうものとして読んでいただければ幸いです。

3-2. natality=始める能力(the capacity to begin)?

 ここではnatality=非-生物学的誕生(natality=birth)という解釈についてはひとまず棚上げにしておいてトチュニッグ論文に戻ります。

 トチュニッグの議論は少し遠回りなので、あらかじめ議論のゴールを見ておくとすると、次に考察されるのは、〈natality=始める能力〉という解釈についてです。トチュニッグはこの解釈を退けた上でnatality概念に関する自らの積極的な解釈を提示していますが、まずはこの解釈の内実を順番に見ておきましょう。

・いかなる意味で人間だけが「誕生」しうるのか?

 トチュニッグは〈natality=始める能力〉という解釈を検討するために、アーレントにおいてbirth/natalityが非-生物学的な、人間的なものであることの理由を考察するところから始めています。
問いのかたちにするならば、いかなる意味で人間だけが誕生しうるのか?

 アーレントの答えは、人間だけが「ユニークで、代替不可能で、繰り返し不可能な存在者たち」として生まれるから、というものです。同じところをもう一度、引用すると、

自然と、あらゆる生き物が自然によって押し込められる円環的運動は、我々が理解するような誕生も死も知ることがない。人々の誕生と死は、単純な自然的出来事ではなく、個々の人々が、すなわちユニークで、代替不可能で、繰り返し不可能な存在者たちが、現われては立ち去る(depart)世界と関わっている。誕生と死は、絶えざる運動の中にはない世界を前提にしており、その耐久性と相対的な永続性が〔人々の〕現われ(appearance)と消え去り(disappearance)を可能にする。(HC: 96f.)

人々の誕生を考える上でキーワードは、個々人の「ユニークさ」です。和製英語で「ユニーク」というと、「ユニークな人」というようにちょっと変わった人というようなニュアンスになってしまいますが、そういう意味ではなく、「唯一無二の」という意味です。ドイツ語ではeinzigartigで、森一郎はこれを「唯一無比」と訳していて、個人的にはこの訳が好きです。

 また、トチュニッグはあまり注目していませんが、「代替不可能」「繰り返し不可能」という点については、次のように理解しておくのがよいと思います。アーレントは『人間の条件』および『活動的生』で人々が動物と違って繁殖によってその不死性を保証する種のメンバーではないということを論じていて(cf. HC: 18f.)、これは要するに、人間以外の動物にとって、生殖や繁殖によって子孫を残すことは親個体の代替個体を生むことであり、その意味であらゆる個体は繰り返し可能だということです。一方で人間は、動物として生物学的な生殖や繁殖をするとしても、子は親の代替品ではなく、親も子も、あらゆる人々はそれぞれ”基本的に”ーー特定の人種の一個体や単なる労働力として扱われない限りーー繰り返し不可能です。アーレントが誕生(およびnatality)を生物学的な誕生と区別することには、こうした意味があるわけです(「不死性」については、ややこしくなるのでここではスルーしますが、誕生やnatalityにとっても重要な議論になってきます。この点は、某シンポジウムでの私の研究発表で詳しく取り扱っています)。

 では、人々のユニークさ(唯一無比さ)についてアーレントはどう考えているのでしょうか。トチュニッグは、適切にも、ユニークさ(唯一無比さ)を「複数性(plurality)」に結びつけて議論します。アーレントの必殺技の登場です。

・人々はいかにしてユニーク(唯一無比)で複数的なのか?

 アーレントにおいて人々のユニークさ(唯一無比さ)がその複数性と関わるのは、複数性が〈単に数的に複数あるいは無数の人間が存在する〉ということを意味せず、むしろ〈ユニークな(唯一無比な)人々が複数あるいは無数に存在する〉ということを意味するからです。複数性とユニークさ(唯一無比さ)はコインの裏表のような関係にあるわけです。
ですので、トチュニッグが論じるように、この「複数性」概念を掘り下げることがユニークさ(唯一無比さ)の内実を明らかにすることに繋がります。
では、人々はいかにしてユニーク(唯一無比)で複数的なのでしょうか。

「複数性」概念がまとまった仕方で論じられるのは『人間の条件』『活動的生』「第5章 行為(action, Handeln)」です。action-Handelnは志水訳では「活動」と訳されていて、この訳を採用する研究者も多いですが、ドイツ語のHandelnを考えても「行為」と訳すのが適切だと思いますので、ここではそうしておきます。

アーレントにおいて「複数性」は、その見た目以上に特殊な概念です。「人それぞれだよね〜」というような意味かな?と何となく考えてしまうかもしれませんが、ぜんぜん違います。まずは、トチュニッグがアーレントから引用する箇所を見てみましょう。

行為と言論はこのユニークな差異を露わにする。行為と言論によって、人々は、単に差異的であることの代わりに抜きん出るのである。行為と言論は、そこにおいて人々が身体的な対象としてでなく、人々として互いに現われ出る様式である。こうした現われは、単に身体的に現実存在することとは区別されて、創始(initiative)にかかわっている〔以下、省略〕。(HC: 176)

ここでアーレントは、人々のユニークさ(唯一無比さ)が相互的な「行為と言論」において露わになる、と論じています。ユニークさ(唯一無比さ)と複数性が表裏一体の関係にあるならば、複数性もやはり、相互的な行為と言論において露わになるということになります。実際、アーレントは行為
と言論において複数性が現実化(具体化)すると述べています(cf. HC: 178)。

それゆえ、トチュニッグがリチャード・バーンシュタイン(ジェイと同様、存命の著名な哲学者ですね)から引用しているように、アーレントにとって複数性とは「存在の状態ではなく一つの達成であり、現実化(具体化)される潜在性である」(Bernstein, 1986: 223)。

「人それぞれだよね〜」と言うとき、それは基本的に「いろんな人がいる」ということですが、アーレントにおいて複数性とは、そういう「いろんな人がいる」という単なる事実や所与であるよりは、行為と言論において具体化され達成されるものなわけです。アーレントは、人々が均質化していくという現代の社会の「画一主義」を危惧しており、逆を言えば、行為と言論なしには、この複数性は現実化されないわけです。

トチュニッグは(なぜか)引用していませんが、複数性に関しては昨年来日したデイナ・ヴィラがよりよく表現していますので、ついでにそちらも引用しておきます。

「したがって複数性は、単に理解や合意を獲得する大規模な過程 の「所与」ではなくて、むしろアレントにとっては、起源であるとともに目標であり、行為や判断の必要条件であるとともに達成なのである 」(Dana R. Villa (1996) Arendt and Heidegger: The Fate of the Political, Princeton University Press, p. 70.)


※ちなみに、政治的自由主義などの議論で登場する「多元主義(pluralism)」とアーレントの「複数性(plurality)」の違いもこの辺にあると思います。
ざっくり言えば、

1. 多元主義において政治の前提とされる人々の価値観の多様性は、必ずしも各々の価値観のユニークさ(唯一無比さ)を強調しない。
アーレントの「複数性」は、各々のユニークさ(唯一無比さ)を強調する。
2. 多元主義は人々の価値観の多様性を単なる事実や所与として前提とする。
アーレントの「複数性」は、単なる所与や事実ではなく、行為と言論において、政治において達成されるものでもある。
3. 人々の”多様さ”に関する基準(何によって多様かということ)が、多元主義とアーレントの「複数性」では異なっている。

(なお「多元主義」とアーレントの「複数性」の間の擦り寄りの可能性については、先に触れたデイナ・ヴィラに応答した以下の拙論で論じたのでもしよければご覧ください。青木崇「アレントとハイデガー、もう一度ーー「複数性」論の再考」Heidegger Gesellschaft Tokio (Hrsg.), Zuspiel, Bd. 3, 2020.
以下のリンク先から無料で読めます。https://heidegger2017.wixsite.com/mysite/zuspiel-bd-3-2020)。

・〈natality=始める能力〉という解釈が間違いである理由


話を戻しますと、〈natality=始める能力〉という解釈は、以上の点に重きを置く解釈です。要点を端的にまとめるならば、

1. 行為と言論において人々は互いに各々のユニークさ(唯一無比さ)を露わ
 にする。
2. 人々が各々ユニーク(唯一無比)であることは、この世界において各々が
    全く”新しい”存在者であることを意味する。
3. 行為と言論はこのユニークで新しい存在者を世界に露わにするという意味
 で「始まり」である。
4. natalityとは行為と言論において新しい始まりを成す能力である。

この解釈はもっともらしく見えます。
トチュニッグによれば、多くの解釈者が(はっきり定義しないまま)このような解釈を採用しています。有名どころでは、Bowen-Mooreという研究者が”Hannah Arendt’s Philosophy of Natality”New York: St. Martin’s Press, 1989という、アーレントのnatality概念に関するまとまった著作ではっきり論じています。

トチュニッグは、〈natality=始める能力〉という解釈がnatalityを比喩的に理解するものだと述べていますが、トチュニッグが〈natality=始める能力〉という解釈を批判する理由として重要なのは、『人間の条件』における次の一節です。

「行為の能力は存在論的にnatalityに根差している」(HC: 247)

既に述べたようにトチュニッグは「存在論的」というところをスルーしていますが、このスルーにさしあたり乗っかるとトチュニッグの言いたいことはよくわかります。
すなわち、この命題のnatalityの箇所に「始める能力」を代入する(&「存在論的」をマイナスする)と、

「行為の能力は始める能力に根差している」

となります。
しかし、「始める能力」とは要するに「行為(と言論)をする能力」なわけですから、「始める能力は始める能力に根差している」と言っているのと変わらない、ということになります。これではこの一文が意味のない、空虚なものになってしまいます。
ですので、〈natality=始める能力〉という解釈は成り立たないと背理法的に考えられるわけです。

〈natality=始める能力〉という解釈に対するトチュニッグの批判は、とても強いものであるように思えます。

・森一郎の解釈ーー『人間の条件』と『活動的生』の差異


既に触れましたが、『人間の条件』のドイツ語版『活動的生』の翻訳者である森一郎も”一見すると”似たような解釈を訳注で提示していました。

「「出生性Natalität」という、生まれ出づる者たちの始まりをはらんだ存在性格」(森訳、508頁)。

「始まりをはらんだ」というのを「始まりの可能性」として理解して先と同じように代入してみると、「行為の能力は始める可能性に根差している」となります。これも先と同じくらい空虚な命題に見えてしまいますね。

では、森による解釈は、〈natality=始める能力〉という解釈と同様に斥けられてしまうのでしょうか?
私はそうは考えていません。

森によるこの解釈は訳注の数行で語られているだけなので詳細はご本人に伺ってみないとわかりませんが、
少なくとも次の2点を押さえた上で理解すべきだと思います。

1.  強調点は「生まれ出づる者たちの始まりをはらんだ存在性格」の「存在性格」というところにあります。「存在性格」というのは「行為の能力は存在論的にnatalityに根差している」の「存在論的」に対応する表現でしょう。トチュニッグがスルーしたところを森はしっかり押さえています。

2.   森の解釈は、『人間の条件』のドイツ語版『活動的生』の翻訳で提示されています。そして「行為の能力は存在論的にnatalityに根差している」という『人間の条件』の命題は『活動的生』では次のように言い換えられます。

「これ(Natalität、Geborensein)こそ、何か行為といったようなものがそもそも存在しうるための存在論的な前提である」(Va: 316)

『人間の条件』バージョンとの違いとして目立つのは、「行為の能力」が「行為」と言い換えられ、「存在論的に」という副詞が「存在論的な」という形容詞になっています。「能力」が抜けて「行為」だけになったのでスッキリしていますし、〈存在論的に根差す〉だとピンときませんが、〈Natalität(natality)は存在論的な前提である〉と言い換えられることで、Natalität(natality)が存在論的な概念であることがはっきりしています。

森による解釈は、ドイツ語版でのこの箇所を引き受けて(&おそらくハイデガーを考慮に入れつつ)natalityを存在論的に読み直す試みであると理解できます。
こう言ってよければ、natalityとは行為が根差す人々の存在の仕方、存在論的な構造であって、この構造を解明することが、natalityの内実を解明することになる、という方向性の解釈でしょう。
この方向性であれば、「存在論的」の意味をスルーせずに済みますし、トチュニッグが問題視する「行為の能力は始める能力に根差している」という類の空虚さも回避することができます。
〈natalであること〉を意味するように見えるNatalität(natality)という語のかたちともフィットします。
また、natalityと一対で論じられる「可死性(mortality)」や「複数性(plurality)」との関係も論じやすくなると思います。
(*これら点も、某シンポジウムの研究発表で掘り下げて論じます/した。)

私はこの方向性で読むのが一番面白く、またアーレントの論述(とりわけ『活動的生』)に忠実だと考えていますが、しかしそうだとすると、齋藤純一による解釈は誤りだ、ということになるのでしょうか?

・齋藤純一の解釈ーー『過去と未来の間』から

齋藤はnatalityを次のように定義していました。

「アーレントは、人間には世界に新しいはじまりを導き入れることが可能であることを「出生(natality)」という言葉で表現した。これは、「誰もが生まれることによって世界に入り込み、誕生によって世界が絶え間なく更新されていく事実」を指す」(齋藤『アーレント読本』223頁)。

齋藤は『過去と未来の間』「教育の危機」から適切に引用しているので、これもまた斥けがたい解釈であるように思います。
森の解釈と齋藤の解釈は、完全には重ならないが、矛盾もしない、というところでしょう。

ですので、森の解釈と齋藤の解釈を統一的に捉えることが、natality概念の究明になるのではないかと今のところは考えています。

トチュニッグが最終的に提示する解釈は、この齋藤の解釈と重なります。齋藤の解釈については、トチュニッグの結論を見た後で少し検討していきます。

また、ドイツ語版の話になったので、付言しておきますと、『活動的生』には「誕生と誕生性(Geburt und Gebürtlichkeit)」(Va: 316)という表現が登場しています(英語版にはありません)。Geburtは英語のbirthに対応し、GebürtlichkeitはNatalität(natality)と同義語です。ですので、森川がそう解釈するように、natality=birthという理解の下でnatalityを「出生」と訳すならば、先の箇所は「誕生と出生」(birthとbirth)と言っていることになりますが、これは明らかに奇妙です。
また、Gebürtlichkeitは、Geburt(誕生)を形容詞化して(-lich)さらに名詞化した(-keit)ものですので、これをGeburt(birth)の同義語として理解するのは無理があります。
とはいえ、森川の解釈もこれに尽きるわけではないので、トチュニッグや齋藤の解釈と一緒に整理して検討していきます(次回につづく)

3-4. natality=新参者が次々に世界に到来すること?


4. 反出生主義と「人間の条件」としてのnatality


5. おわりに

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