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第一回 / その偶然に満ちた発端

スタニスラフスキー師の著作は当初「俳優修業」というタイトルで日本語訳が出てました。
それにあやかって「(令和の)(50代の)俳優修行」をつらつら書きます!
そのうち本にしたいなあ。


2012年8月。

2つ年下の弟が、膵臓癌で余命4ヶ月との告知を受けた。
まだ42歳だった。
びっくりした。

びっくりした私は「頼り甲斐のあるおっさん仮面」を装着した。取り乱すことなく、常に前向きに、弟の闘病を明るく笑い飛ばしながら日々を過ごした。

心の中では大声で悲鳴をあげて号泣していたのだが、それは無かったことにした。

当時16歳だった私の娘に「お前を可愛がっていた叔父さんが癌で死ぬ。よく死に様を見ておきなさい。そして、我々家族の死なせ様もよく見ておくように」とか言って聞かせた。

仕事の合間に毎日病室に通った。シャツをかぶり続けてナースさんたちに「ジャミラ兄さん」と命名された。

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2013年12月。

告知通り、弟が死んだ。

弟の葬式に来てくれた弟の仲間たちが「このコント、オチがないじゃないですか。笑えないっすよ」などと私に訴えるので「綺麗なオチじゃねえか、笑え」と言いながらタバコに火をつけてやったりした。
かっこよくて、頼れて、感情の渦に飲み込まれずに、運命を静かに受け入れて、やるべきことを淡々とやる。そんな中年男性を全力で演じた。

胸の中のなにかが溢れそうになると車で出かけて人気のない高速道路の橋の下に車をとめてハンドルをガンガン叩いて泣きわめいて、スッキリしたら家に帰った。
悲しみや苦しみなど、私のようなクールでイケてるオッサンにあってはならないのだ。

そんなわけで、恙無く弟を見送れたのだが、本当に困ったのはその後。装着した仮面が取れなくなったのだ。
痛み苦しみ悲しみ。そういったエネルギーを押し殺し、表現しないように我慢した結果、それらを感じ取ることができなくなった。

痛み苦しみ悲しみ、と書いたが、実は単なるエネルギーで、名前を付けることは本来的には不可能だし、それだけを選択して感じないように表現しないようにする、のも本来的には不可能。

私は生きる力そのものを自分で封じてしまったのだった。結果、どんどん無気力になっていった。これには参った。私は特殊技能のない自営業者なので、目の前のお客様に全力で喜んでいただき、死ぬ気で仕事を取りにいかなければすぐに干上がる。

ところが私は、飼い殺しのような長期契約に埋もれて、月収10万でもいいか....めんどくせえしな...などと、無気力な日々を過ごし続けた。弟が死ぬまでの勢いはどこにもなかった。
「頼りがいのあるおっさん仮面」のはずが、どんどん単なる無表情無感覚に近づいていった。これは大変危ない。死んでしまうからである。
私は当時「あー、こうやって人は死ぬのか。なんらドラマチックなことなんてないんだな。気力がちょっとずつ無くなってって死ぬんだな」と、ぼんやり自分を眺めて半年ほどが過ぎた。

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2013年7月。

20年ぐらいぶりに樋本淳氏から連絡がきた。会いたいと言う。

彼は、私の高校の同級生K氏の最初の夫である。樋本氏K氏が結婚して大田区蒲田に新居を構えた時、私は横浜市鶴見区に住んでおり、新婚家庭に頻繁にあがりこんでよく酒を飲ませてもらっていた。
程なく両氏は離婚し、樋本氏とは疎遠になった。映像の仕事をしながら自分の作品を創り続けているとの消息だけはちらほら耳にした。交流がない間も映画創りを貫徹しているであろうことは容易に想像できた。「大船で会いましょう。宗教でも借金でもないのでご安心を」と、彼は言った。
果たして、大船のワイルドな掘立て小屋でジンギスカンを突きながら彼は「新作に主演してくれ」と言ったのだ。

芝居か......

私はうっすらと、どうやらこれで生きていけそうだ、と思った。理由はわからない。芝居の経験もなければ、訓練も受けていない。ただ、ここになんらかの突破口がある。漠然とそう感じ、出演を承諾した。

映像作品とは言っても、樋本氏所属の制作会社による出資で、完成後に正規の流通に乗るかどうかもわからない。そんなにオオゴトになるはずはない。
ところがである。事前の打ち合わせや顔合わせを重ねていく中で、私は段々焦ってきた。撮影監督の新津氏、音響監督の荻久保氏、美術監督の三原氏、コンポジットの内田氏、などなど、技術の皆様がちゃんとしたプロフェッショナルなのである。
学生ノリの自主制作を想定していた私は大いに焦った。そしてある日樋本氏がこう言った。「敬ちゃんの奥さん役、佐伯日菜子さんに決まったから」

私の心臓は止まった。「毎日が夏休み」も「エコエコアザラク」も大好きだったからである。

佐伯日菜子さん / 撮影:鈴木 教雄
佐伯日菜子さん / sunset drive本編より

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2013年9月。

そうして私は、樋本氏の作品「Sunset Drive」の撮影に主役として参加した。

演技未経験。訓練も、演出らしい演出もなく突然の主役であり、相手役の佐伯さんは20年近いキャリアがあるプロ中のプロであり、私は大いに狼狽した。が、私は大いに楽しみもした。

撮影中に一つの疑問が生まれた。

「どうすれば芝居がうまくいくのか?」

たまたま何回か、何かが偶然上手く行った時、OK!素晴らしい!という反応が来る。そうでもない時は、リテイクだったり、まあいいやOKで、という反応が来る。

OK!の時、自分でも凄まじく気持ちがいい。

回り全部がしーんと静まりかえり、自分で自分のことを俯瞰のようなそうでないような視点で見ており、風とか光とか蝉の声とか、外界の刺激をすべて祝福のように感じた。フローとかゾーンとかワンネスとか、そういったもののようだった。

この気持ちよさを百発百中で発揮できれば、私は名優になれるのでは?いったいどうすればこの体感の打率を上げられるのだろうか?さっぱりわからなかった。誰に聞いても明確な返答はなかった。

音響監督の荻久保さんに「文学座受けてみれば?」と勧められて入団試験に応募してみた。書類で落ちた。

「演劇教室」で検索してみた。ヒットする情報がどれもピンとこないので、なんの行動も起こさなかった。

私の疑問は膨らむばかり。

「どうすれば芝居がうまくいくのか?」
「どうすればいつもワンネスでいられるのか?」

この探究から私の俳優修業が始まったのだった。

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2013年12月。


ところで私の無気力症は、撮影が終わって三ヶ月後ぐらいに突然治った。

自宅の居間でなんとなくテレビを見ていた時に、突然なんの前触れもなく、弟のために号泣したのだ。

妻子は呆気に取られてた。私も驚いた。今にして思えば、沸騰しそうな鍋の蓋が突然取れたのだろう。それがなぜこのタイミングでこの形だったのかは、よくわからない。

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2014年〜2015年。

「sunset drive」が完成して、劇場公開された。地元鎌倉の浄智寺で上映させて貰ったりした。DVDにもなった。多分今でもアマゾンで買える

期待の大型新人俳優小林敬!最初で最後の主演作!と自分で勝手にキャチコピーを付けた。

できあがった作品の評価は
https://filmarks.com/movies/64288
こんな↑感じであった。
ヒット作ではないので、私の耳には関係者からの良い評判しか入ってこなかったし、今でもそうである。ピンとこない人はわざわざ「ピンとこない」などとは言ってくれない。
その点、filmarksは参考になる。全くフリーの立場で見て頂いたお客様の感想は概ね「佐伯日菜子はさすが。小林の救いがたい棒読み演技が苦痛。ストーリーは良し。モノクロの映像と独特の演出と秀逸な音楽は奇妙な快感。子役がかわいい」と要約できそうだ。
エンタメとして大金を稼ぎ出すようなコンテンツかと言われると、正直それはないだろう。
運が良ければ、関わった人や観た人のとてもパーソナルな部分にそっと居続ける小品ではあり得る。
個人的には、奇跡の大傑作だと思っている。今でも。

撮影から完成に至る道程では本当に無我夢中ではしゃいでいた。できあがった作品をみんな見てくれて本当に嬉しかった。これを起点に色んな素晴らしいことが私の人生に起こった。

しかしその一方で「どうすれば芝居がいつもうまくいくのか?それを誰にどうやって教わればいいのか?」という疑問はどんどんふくらんでいった。作品は良かったんだけどさ、おれは?おれはどうするの?!

(続く)

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