見出し画像

広島で『爆心地』を走る “ 旅先で『日常』を走る 〜episode14〜 広島編 ”

前回のあらすじ

万代で『雪道』を走る

“ 出来る事ならまたひょんなきっかけで新潟との縁ができればとも思う。なぜなら、私はまだ万代バスセンターのカレーライスを食べていないのだから。”

映画『この世界の片隅に』

 2016年11月、映画『この世界の片隅に』が公開された。こうの史代作のマンガを原作に、片渕須直監督がクラウドファウンディングを駆使して制作資金を集め、苦心の末に完成にこぎつけた作品だ。

【あらすじ】
1944(昭和19)年2月、主人公すずは広島市から呉へとお嫁にやって来る。呉はそのころ日本海軍の一大拠点で、軍港の街として栄え、世界最大の戦艦と謳われた「大和」も呉を母港としていた。
配給物資がだんだん減っていく中でも、すずさんは工夫を凝らして食卓をにぎわせ、衣服を作り直し、時には好きな絵を描き、毎日のくらしを積み重ねていく。
1945(昭和20)年3月。呉は、空を埋め尽くすほどの数の艦載機による空襲にさらされ、すずさんが大切にしていたものが失われていく。それでも毎日は続く。
そして、昭和20年の夏がやってくる――。

映画が公開される数ヶ月前の夏のある日、この作品の主役である北條すずの声をのん(能年玲奈)が務めることが発表された。私はその時にはじめて『この世界の片隅に』の存在を知った。以前の所属事務所とのトラブルで、ここ数年まともに仕事ができなかった彼女の本格復帰作ということだった。映画が公開されるとすぐに、私はご祝儀をはずむ感覚で川崎の109シネマまで足を運んだ。映画の内容には特に期待することもなく。

作品は2時間ちょっとの上映時間だったが情報量が凄まじく、そのスピード感に飲み込まれるような感覚を覚えた。まるで観ている自分自身がすずさんに同化したかのように、彼女の体験を自分事として追体験してしまった。観終わった直後は、ただただ唖然となるばかりだった。茫然自失の状態で帰路を急いでいると、突然フラッシュバックが来て涙が止まらなくなった。ただ純粋に悲しかったのだ。路肩に移動して、心の中ですずさんと肩を抱き合って一緒に泣いて、心を落ち着けた。
あれから今に至るまで、自分の内部にすずさんを飼っているかのよう感覚を持ち続けている。

『この世界の片隅に』は、ひとりの女の子が自分の想像力を唯一の武器として、世界に対抗して敗北する話だ。

敗北した後、彼女たちの生活が戦後民主主義の自己欺瞞に回収されていくから駄目だ、という意見もあるが、賛同しかねる。なぜなら彼女たちは敗北者だけで疑似家族を構成し、自分たちが幸せになることで世界への復讐を図っており、戦いを止めたわけではないからだ。


敗戦後暫くして、坂口安吾が『不良少年とキリスト』で、こう述べているように。

 負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。

どんなに目の前の現実が非日常になっていたとしても、想像力を駆使して自分なりの日常を維持していこうとする強靭な意志を持つ。その態度こそが、世界を1mmづつでも前に動かすのだと信じている。

これはランナーとして私が持っている矜恃でもある。

『世界の片隅』を歩く

ということで、この映画が好きなあまり、映画を見た三週間後、2016年の暮れも押し迫る中、私は43歳にして生まれてはじめて中国四国地方に足を運んだ。目的地はもちろん『呉』だ。
呉についてまっ先に『大和ミュージアム』を鑑賞した。

画像1

画像2

1/10スケールの戦艦大和を目玉としたこの施設では、軍港としての呉の歴史を学ぶことができる。ここで、人間魚雷に志願して乗った若者の遺言のような音声を耳にし、やるせない気持ちになった。

画像3

『艦船巡り』の船にも乗った。呉は今でも海上自衛隊の主要基地であり、また大規模な造船所も稼働している。現在進行形の軍港なのだ。

画像4

画像5

もちろん聖地巡礼も。すずさんが周作に届け物をした時に待ち合わせた場所はそのままの形で残っていた。そして病院に登る階段もあったが、病院はすでにない。ここを登らずに右折して螺旋状に伸びた坂道を登って行く。

画像6

この場所。ネタバレを避けるため詳細は省くが、目を閉じて手を合わせる。花の一本でも手向けたかったのだが、呉の駅前には花屋がなかったので諦めた。

坂を降り、そのまま山の方に向かう。

画像7

こちらの方は見事に空襲で焼き尽くされたために当時の建物が残っていない。朝日遊郭はもちろんのこと、映画館も二河公園もすべてまっさらになっている。映画と同じ相貌を維持していたのは、すずさんの家の方に登っていく坂道にある三ツ蔵だけだった。

画像8

これだけ何も残っていない聖地巡礼も珍しいが、現地を実際に歩くことによって浮き彫りになったのは、片渕監督のとてつもない執念深さであった。残されたわずかな写真や史料、聞き取り調査などから当時の呉や広島の街並みを完璧に再現したのだ。「リアリティとリアリズムは違う」ことくらいは理解しているが、この作品の趣旨を貫くためには、当時の「リアル」を一つひとつ徹底的に積み上げて、当時の生活そのものをエンターテインメントに昇華させる行為が重要だったのだ。

また、呉を知ることによって、我々が知っているヒロシマとの対比構造がくっきりと輪郭を帯びてきた。

・軍港としてのアイデンティティがある呉。戦争で原爆を落とされた広島。
・戦争を否定する=自己否定になってしまう呉。戦争を否定しないと自らのアイデンティティを保てない広島。
・インバウンドの恩恵がほとんど見受けられない呉。インバウンド大盛況の広島。

「広島で生まれ育った余所者のすずさんが呉に嫁ぎ、散々傷つきながらも、自分の意思で呉に残る」という成長譚。時代や周囲に流され続けたすずさんが、最終的に自らの意思で「私はここで生きていく」と決めたシーンこそがこの作品の最大のクライマックスだと思っている。


聖地巡礼をひと通り終えた後、駅近くの喫茶店に立ち寄り、呉名物『海自カレー』を食べた。『海』だけにイカが入っていた。ココイチでは必ずイカリングをトッピングするマンである私にとって、至福のランチタイムであった。

画像9


『夕凪の街』を歩く

2018年8月、NHK広島放送局が『この世界の片隅に』と同じくこうの史代作品である『夕凪の街・桜の国』を制作し、ゴールデンタイムで放送した。
『原爆スラム』の存在、原爆症、そして皆実さんをはじめとした多くの人々の無念… ここにも違った形の『片隅』が存在していたのだ。
またこの作品には、被曝者が息子の嫁に被曝者を迎えることを反対する場面があった。被曝者の間でも、身内の幸せを考えると、被爆者を排除してしまう。原爆症という『目に見えない毒』。恐れ・穢れ・呪い。人間は恐怖を克服できないのだろうか?

 【あらすじ
「夕凪の街」は、1955年の広島市の基町にあった原爆スラムを舞台にして、被爆して生き延びた女性(平野皆実)の10年後の、心の移ろう姿と、原爆症に苛まれるという当時の広島市民を突如襲った現実を描く。
「桜の国」は、第一部と第二部に分かれている。主人公は被爆2世の女性。第一部は1987年の春。第二部は2004年の夏。
「夕凪の街」と「桜の国」第一部・第二部の3つの話を通して、3世代にわたる家族の物語が繋がっている。

放送から三週間後、私は広島市内に立っていた。広島出身の我が推しメンの卒業ライブに参加するためである。しかし私は開始時刻を1時間早く勘違いしており、会場の上野学園ホールに早く到着してしまった。どうやって時間を潰そうか、といくつか考えを巡らせる。「ここから原爆スラムは近いかもしれないな。」
もちろん原爆スラムなど現存はしていない。ネットで大まかな場所を調べ、向かう。

画像10

川沿いに団地が林立している。この先が原爆スラムの跡地らしい。この一帯の団地群が70年代に完成し、原爆スラムの住人はこの団地に移住したということだ。

画像11

画像12

団地の先は緑地公園になっており、散歩をする人たちが見受けられる。ぱっと見のどかな雰囲気ではあるのだが、なんというかどんよりとしたモヤのかかったような嫌な感じが身に纏わりついてくる。この土地の記憶の積み重ねが生み出すものだろうか? 数多くの名もなき皆実さんたちがこの辺りで生活を営み、ここでお亡くなりになったのだろう。いまやその面影すら残っていないが。

作中での皆実さんの心の叫びがフラッシュバックしてくる。

「ひどいなあ。てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ってたのに」
「10年たったけど、原爆を落とした人は、『やったあ! また1人殺せた』ってちゃんと思うてくれとる?」


開場時間になるので、そろそろ戻ろう。原爆が投下された後の広島にも、それまでとは違ったかたちの日常が存在したことを実感し、有意義な時間を過ごすことができた。

すっかり日も傾きかけ、このあたり一帯は、作品のタイトル通り夕凪に包まれていた。

画像13


会場に戻るとキャンギャルのチャンネーがレッドブルの試供品を配っていた。一気に飲み干して、喉の渇きを潤した。よっしゃいくぞー!

画像14


『夜の爆心地』を走る

2019年5月、3度目の広島来訪。前回の来訪時との大きな違いは、私が『旅先で走る』趣味を持ったことだ。当日はランチだけ東京で働いたので、夕方の飛行機で広島に移動した。広島の市街地に着いたのは夜20時頃だった。宿にチェックインし早速着替えて、走り出そう。夜の広島市街ランのスタートだ。

画像15

相生通りを紙屋町から八丁堀にまっすぐ走り抜ける。この通りが今も昔も広島のメインストリートだ。通りの真ん中を路面電車が頻繁に行き交っている。広島の路面電車は、原爆が投下された3日後には、一部区間で運行が再開された。驚異の生命力だ。
福屋百貨店と三越の間を通っている中央通りを右折する。少し進み、パルコの手前を右折してアーケードに入る。

画像16

この通りが広島の繁華街だ。さすが100万都市。人通りが絶えない。若者の姿も多い。人が比較的少ないルートを選んで、慎重に走る。しばらく走ると、アーケードが途切れ、目の前に異質な光景が広がった。

ここが広島平和記念公園である。

画像17

1945年8月6日8時15分、B29は広島の繁華街の中心である相生橋を目掛けて原子爆弾を投下した。
平和記念公園の近くに繁華街が後から作られたのではなく、繁華街の中心に原爆を落とされたのだ。実際に走ると距離感が明白になる。そして、その行為の残酷さに呆然とする。足を止めて『平和の灯』に合掌する。『平和の灯』の先には原爆ドームが鎮座している。

道一本挟んだ繁華街と比べ、平和記念公園側は人通りが一気に少なくなる。以前、日中に訪れた時と比べて、独特の静寂感を感じる。そして、暗闇の中を走ることで、ここで亡くなった多くの命と素手で触れ合えるような感覚がある。

画像18

爆心地である相生橋を経由し、相生通りに戻る。
広島市民球場跡地を過ぎ、そごうの先、鯉城通りを左折する。この先は官庁街&城だ。広島城のお堀に突き当たる。今は再建されているが、広島城の天守閣も原爆で吹き飛ばされたそうだ。日本中を旅しながら走っていると、昭和19年と20年に空襲で焼失した城の多さに驚愕する。

右折する。時刻は21時。人通りはほとんどない。合同庁舎・女学院を抜け、上柳橋を渡ったところで左折する。広島駅は目と鼻の先だ。

ゴールはお好み焼き屋『大福』。断じて広島焼き屋ではない。昔の職場の先輩が、20数年前に広島に赴任していた時代に行きつけだった店を、紹介してもらったのだ。今回のランは、いわば「彼の思い出も少しだけ背負って走った」のだ。

画像19

注文したチューハイに刻みネギが紛れていたが、ノープロブレム。店主がTV画面に映される広島カープの試合に見入っているあまり料理提供が遅れているが、ノープロブレム。きっと彼の血の色はカープの真っ赤に煮えたぎっていることであろう。

『片隅』たちと生きる

戦時中という非日常下でも、いろんな場所でいろいろな人たちが日常を営み、様々な喜びや悲しみを感じながら精一杯生き、亡くなっていった。それはごく当然のことであるが、あえて語られることは稀である。戦争という強大な非日常は多くの人たちの人生を狂わせ、悲劇の源泉になる。

原爆で亡くなった人、原爆症で亡くなった人、空襲で亡くなった人、従軍先で亡くなった人。身近な人を失った人、自分だけ生き残って罪の意識に苛まれる人、生き残った人を恨む人、右手を失った人。

この世界に散在している『片隅』たちの存在に目を凝らし耳を傾けて、さまざまな場所でさまざまな立場の人によって送られた日常を拾い上げていくこと。これによってより多くの視点を得ることができる。我々がより豊かな日常を過ごしていくための、大きな助けになるであろう。



追記

・映画『この世界の片隅に』は、8/9(日) 15:50〜 
・#あちこちのすずさん は、8/13(木)22:00〜

どちらもNHK総合TVで放送予定。
特に、 #あちこちのすずさん は、すっかり通年企画になっているようで、嬉しい限り。


次回予告


島原で『乱』を走る

いただいたサポートは旅先で散財する資金にします👟 私の血になり肉になり記事にも反映されることでしょう😃