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国際政治にも「道徳」はある。 国際的な「道徳」の意味と有効性とは?

ヨーロッパの政治思想の中には、「道徳」にいて二人の重要な哲学者がいます。イマニュエル・カントとジェレミー・ベンサムです。二人の考え方の違いを国際政治学者のジョセフ・ナイは「国際紛争」という著書で、例を使って説明しています。

二つの考え方の違いを理解するために、ここである貧しい村に足を踏み入れたとしてみよう。そこでは、今まさに軍人が3人の村人を壁の前に並ばせ、処刑しようとしていた。「なぜ彼らを銃殺しようというのだ?悪人には見えないじゃないか」と聞くと、軍人は「昨晩、この村の何者かが私の配下の1人を殺したのだ。村の誰かが犯人であることは分かっている。だから、この3人を見せしめに銃殺するだけだ」というのであった。あなたらなら、こう答えないだろうか。「そんなことはしてはいけない!無実の人を殺すことになるじゃないか。昨晩1発が射たれたのだとすれば、少なくとも2人は無罪でしょう。ひょっとしたら3人とも無罪かもしれない。とにかくやめなさい」と。すると軍人は、部下からライフルをとりあげ、あなたに渡してこう言った。「もしお前がこの中の1人を殺したら、残り2人を逃してやろう。1人を殺せば、お前は2人を救うことができるのだ。」

この場合、カントによれば、故意の殺人は誤りであり、悪事に手を染めることをは拒絶すべきだという考え方です。一方で、ジェレミー・ベンサムの功利主義的考え方であれば、2人が救えるなら、1人を殺すべきだという結論になります。

この例だとカント的な考え方の方が良さそうに思えますが、もし壁の前に立たされている村人が100人だったら、どうでしょうか。100万人だったら、どうでしょうか。その場合は、ベンサムの功利主義的な考え方が正しいように思えます。

国際社会の「道徳」とは何か?

そもそも「道徳」とは何でしょうか?広辞苑の定義は下記です。

・道徳

人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。

上記の定義の中の「個人」を「国家」に、「社会」を「国際社会」に置き換えると次の通りになります。

国家のふみ行うべき道。国際社会で、その国家の国際社会に対する、あるいは国家相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、国家の内面的な原理。

道徳の定義を国際社会に置き換えることが困難であることが分かります。国際社会に「一般に承認されている規範」は存在するのでしょうか。

続いて、「道徳」の類義語の定義も整理してみましょう。

・倫理

人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。

・道義

人の行うべき正しい道。道徳のすじみち。

・人道

人のふみ行うべき道。人の人たる道。

・正義

正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。

・モラル

道徳。倫理。習俗。

言い方は複数ありますが、どれも「人のふみ行うべき道」を指しています。国際社会に置き換えると、「国家のふみ行うべき道」となります。果たして、「国家のふみ行うべき道」とは何でしょうか。

国際政治における「道徳」の限界とは?

国際政治における「道徳」には限界があります。それは下記の4点が理由です。

1. 「道徳」の国際的な意見の一致の困難さ

「道徳」には宗教的文化的な違いがあります。道徳や倫理は一つではありません。「国家のふみ行うべき道」は国家の数だけあり、道徳の国際的コンセンサスを得るのは現実的に困難です。

2. 国家と個人で異なる道徳観

個人の道徳が国家へも適応できるとは限りません。例えば、他者に殴られても絶対に殴り返さない個人は良いですが、他国に攻撃されて絶対に防衛行動を取らない国家は、国民を守ことができません。個人の「道徳」を国家の「道徳」に安直に置き換えることは出来ないのです。

3. 因果関係の複雑さ

国際政治はあまりに複雑で、無数の相互作用から成り立っているため、道徳的に正しいと思われる行動が不幸な結果に結びつくことがあります。

4.  国際制度の不在

国際政治には立法府も行政府も強力な司法機関も存在しません。したがって、各国は道徳よりも秩序の安定を優先に考えます。

国際政治における「道徳」の3つの考え方とは?

国際政治上の道徳には次の3つの見方があります。

1. 懐疑主義(Skepticsism)

国際政治は「殺すか殺されるか」という弱肉強食の世界で、国際的な道徳は存在しないという考え方です。

2. 国家中心的道義主義(State Moralism)

国家主権が重要であり、各国の主権の尊重こそが最善という考え方です。政治学者のマイケル・ウォルツァーは「国境というのは、人々が共通生活のために集め合わせたそれぞれの権利の集合を象徴しているのであって、道義的重要性を持っている」と説明しています。

3. コスモポリタン(Cosmopolitan):世界市民主義

国際政治は国家間の社会問題と捉えるのではなく、普遍的な人権を保持する個々人からなる社会の問題として捉えるべきだという考え方です。コスモポリタンでは、国境にいかなる道義的意味もありません。

国際政治に「道徳」は有効か?

国際政治の道徳には3通りの考え方がありますが、どの考え方が正しいというわけではありません。例えば、懐疑主義者は「国際法の存在」を説明できません。国家中心的道義主義は「人道的介入」を説明できません。コスモポリタンは「配分の問題」を説明できません。

現実の国際政治には3通りの考え方が複雑に絡み合っています。したがって、「国際政治に道徳は有効か?」という質問に対する答えは、「状況によって」ということになるでしょう。

例えば、米中対立において「道徳」が有効だとは思えません。米国と中国の「道徳観」には隔たりがあり、共通する「道徳」を見出すことは困難です。道徳に訴えかけることで互いの国に影響を与えることは出来ないでしょう。

しかし他方で、米中両国ともに困窮しているアフリカ諸国への支援活動を実施しています。「間接的に国益に資するため」という考え方もありますが、基本的には道徳に基づいた行動です。

国際政治の「道徳性」を高めることはできるのか?

国際政治の道徳性を高めることは国際社会の安定と平和に繋がります。しかし、共有する「道徳」が存在しない中で、道徳性を高めることは困難です。

そもそも道徳とはどのように生まれるのでしょうか。道徳哲学者のマーサ・ヌスバウムは「道徳心が発露されるには他者への共感が必要である」と主張しています。マーサ・ヌスバウムの主張は国際社会にも適用できます。つまり、国際政治の道徳性を高めるには、「他国への共感」が一つの答えとなるでしょう。

広島を訪れた初の米国大統領としてオバマ前大統領は演説で次のように述べています。

世界はここで、永遠に変わってしまいました。しかし今日、この街の子どもたちは平和に暮らしています。なんて尊いことでしょうか。それは守り、すべての子どもたちに与える価値のあるものです。それは私たちが選ぶことのできる未来です。広島と長崎が「核戦争の夜明け」ではなく、私たちが道徳的に目覚めることの始まりとして知られるような未来なのです。(The world was forever changed here. But today, the children of this city will go through their day in peace. What a precious thing that is. It is worth protecting, and then extending to every child. That is the future we can choose ― a future in which Hiroshima and Nagasaki are known not as the dawn of atomic warfare, but as the start of our own moral awakening.)

国際政治にも「道徳的目覚め(moral awakening)」が必要です。世界がコロナ禍という悲劇に見舞われている今だからこそ、国際政治に「道徳」が求められています。

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