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歴史は繰り返すのか? 「トゥキディデスの罠」と米中対立

「トゥキディデスの罠(The Thucydides Trap)」という国際政治用語があります。アテネの歴史家であるトゥキディデスの「戦史」にちなむ言葉で、戦争が不可避な状態まで既存の「覇権国家」と「新興国家」がぶつかり合う現象を指します。現在の米中対立も「トゥキディデスの罠」に嵌っているという見方があります。

トゥキディデスの「戦史」は紀元前400年前の本です。遥か昔に書かれた本が現代の国際政治で今も有効なのでしょうか。国際政治学者のロバート・ギルピンは次のように述べています。

「正直に考えてみて、国家の行動について、20世紀の国際政治学者が知っていることで、トゥキディデスや紀元5世紀のギリシャ人が知らなかったことなどあるのだろうか。」「究極的に言えば、国際政治は依然としてトゥキディデスが特徴付けた通りのモノなのだ。」

歴史解釈や国際政治理論は軌道修正されますが、本質的な部分は変わりません。トゥキディデスが「戦史」に記した「ペロポネソス戦争」の状況も、現在の米中対立の構造に似通っています。改めて「ペロポネソス戦争」を見てみましょう。

ペロポネソス戦争

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ペロポネソス戦争は「アテネを中心とするデロス同盟」と「スパルタを中心とするペロポネソス同盟」の戦いです。もともとアテネとスパルタは共にペルシャ帝国と戦った同盟国でした。スパルタが保守的な内陸志向の国家で、アテネは通商を重視する海洋志向の国家です。

戦争の背景

前434年、「エピダムノス」という辺境の小さな国で内戦が勃発しました。この小さな国の内戦が、ギリシャ全土を巻き込むペロポネソス戦争を引き起こします。

内戦下でエピダムノスは別の国家であるケルキュラに助けを求めるも断られ、コリントという国に支援を依頼します。コリントがエピダムノスの支援を決定したことに、今度はケルキュラが激怒し、エピダムノスを占領するために艦隊を派遣しました。しかし、ケルキュラ艦隊が途上で遭遇したコリント艦隊を撃破したことにより、今度はコリントがケルキュラに宣戦布告します。そこでケルキュラはアテネに使者を送り、支援を求めます。コリントはペロポネソス同盟に近く、もしコリントがケルキュラを征服してしまうとデロス同盟のアテネは困ることになります。そこで、アテネは介入を決断します。

この時点でスパルタ国内では大激論が始まります。アテネはスパルタに中立を保つよう要請しましたが、コリントがスパルタに「エーゲ海で増大しているアテネの力を食い止めるべきだ」と開戦を訴えます。

スパルタ人の意見は分かれましたが、投票の結果、開戦を決断します。「もし今、アテネの力を食い止めなければ、アテネに全ギリシャが支配されるのではないか」と恐れたのです。

戦争勃発

こうしてペロポネソス戦争が前431年に始まりました。戦争は膠着状態に陥り、10年後に休戦となります。しかし、前413年にスパルタと同盟を結ぶ植民都市があったシチリアを征服しようとアテネが艦隊を送りました。結果は、アテネの壊滅的な敗北です。この敗北をキッカケにスパルタが優勢なりました。劣勢ながらもアテネはいくつかの海戦で勝利しましたが、すでに大勢は決しており、逆転には至りませんでした。そして、前404年にアテネは包囲され、スパルタに降伏します。

戦争の原因とは?

上記の通り、戦争の背景には各国の思惑や相互作用がありました。しかし、トゥキディデスはそれは戦争の原因ではないと断言します。では、戦争の原因は何だったのでしょうか。トゥキディデスは次の通り述べています。

戦争を不可避にしたのはアテネの力の増大であり、それがスパルタに引き起こした恐怖だ。

これがいわゆる「トゥキディデスの罠」の所以です。

安全保障のジレンマ

アテネとスパルタは典型的な「安全保障のジレンマ」に陥っていました。これは「ゲーム理論」の代表的なモデルです。

例として2人の容疑者が逮捕され、別々の警察官に尋問されたケースを考えます。その際に2人の容疑者が「お前が先に自供して相棒に不利な証言をすれば、お前は刑罰を受けずに自由な身になる。しかし、お前たち2人が否認し続けるのであれば、軽微な犯罪で1年の実刑にできるが、同じ日に2人が自白すれば、2人とも懲役20年の判決が下される」という選択を迫られると、2人はどういう行動に出るのでしょうか。

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AとBがお互いに「自白しない」ことで協力すれば、両者ともに懲役1年で済みます(④)。しかし、Aは先に自白することでBを裏切る選択肢が合理的(②)であり、Bも先に自白することでAを裏切ることが利益を得ることができます(③)。このため、意思疎通できない中で、両者は合理的に判断した結果、「自白する」という非協力的な行動を選ぶことになり、懲役20年という最悪の結果を招きます(①)。これを指して、「囚人のジレンマ」と呼びます。

アテネとスパルタも休戦を結んでいました。当然、休戦を維持するのが両国にとって最善の状況です。しかし、両国は互いに相互不審に陥り、相手国が将来的に強大な力を持つのではないかと不安にかられました。結果、両国は休戦を破り開戦を決断したのです。

戦争は不可避だったのか?

ペロポネソス戦争を避けることは出来なかったのでしょうか。トゥキディデスによれば、戦争の原因はアテネの力の増大であり、それがスパルタに与えた恐怖でした。安全保障のジレンマに陥ると、そこから抜け出すのは困難です。まさに「罠」に嵌った状態だと言えるでしょう。トゥキディデスは当時のアテネ市民の考えを下記の通り述べています。

「いずれにせよ、ペロポネソスとの戦争は不可避なのだ、という観測が一般的だった。」

米中は「トゥキディデスの罠」に嵌るのか?

中国の台頭が米国に不安をもたらしています。2500年前のアテネとスパルタに似た状況だと言えるかもしれません。では、スパルタとアテネのように、米国は中国を恐れ、開戦に向かう可能性はあるのでしょうか。

著名な政治学者のグレアム・アリソンは『米中戦争前夜』で「高い確率で米中が衝突する」と述べています。アリソンは、「トゥキディデスの罠」の仮説を検証するために、ハーバード大学の中に「トゥキディデスの罠プロジェクト」を立ち上げ、過去500年の歴史で新興国が覇権国の地位を脅かしたケース16件について研究しました。結果、このうち12件で最終的に戦争が起きました。75%の確率です。

しかし、だからと言って米中が「トゥキディデスの罠」の嵌るとは言い切れません。アリソンが研究した過去の事例よりも、米中関係は遥かに経済的相互依存度が高く、核の抑止力も存在します。

歴史は繰り返すのか?

トゥキディデスは下記のように語っています。

「私の作品は、現在の人々の賞賛を得るために書かれたものではなく、すべての時代の財産となるために書かれたのだ。」

2500年前のアテネとスパルタのペロポネソス戦争の構造は、歴史の中で繰り返されてきました。トゥキディデスの望み通り、「戦史」は現在でも国際政治のバイブルになっています。国際政治には数千年の時を経ても驚くほど一貫した基本的な論理があります。

米中対立が最悪の結果に帰結するかは分かりません。しかし、過去の歴史を学び、「悲劇的な歴史を繰り返さない」という強い想いが必要です。だからこそ、国際政治の歴史を学ぶ意味があるのだろうと思います。「トゥキディデスの罠」を回避するため、米中だけでなく日本の役割も重要です。ぜひ古代ローマのトゥキディデスの言葉に耳を傾けてみて下さい。

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