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第一次世界大戦の教訓とは?戦争を不可避にした最大の要因とは何か?

国際関係論が学問として研究されることになったキッカケは第一次世界大戦です。第一次世界大戦という悲劇を契機に、各国は二度と同じような過ちを繰り返さないように、「戦争の原因」と「平和構築の方法」を模索しました。

今回は国際関係論のキッカケとなった第一次世界大戦について投稿します。

戦争の結果

第一次世界大戦の結果、今までの国際秩序が壊滅しました。戦争により、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアという3つの帝国が崩壊し、世界のバランス・オブ・パワーにアメリカや日本が主要なアクターとして加わりました。

戦争のキッカケ

戦争のキッカケは「サライェヴォ事件」でした。1914年6月28日、オーストリア皇位継承者夫妻がセルビア人の学生によって暗殺されたことをキッカケに、第一次世界大戦が勃発します。

紀元前434年のペロポネソス戦争のキッカケは、「エピダムノス」という辺境の小さな都市国家での内戦でした。辺鄙な地域での小さな危機がキッカケとなり、大きな戦争が勃発したという点では似ています。第一次世界大戦の際もサライエェヴォ事件という一つの危機によって、ヘンリー・キッシンジャーの次の言葉の通り、ヨーロッパを歴史的悲劇が覆います。

「オーストリア皇太子がセルビア人ナショナリストに暗殺されるという、本質的にごく狭い地域の問題が発端で起きたひとつの戦争が、西欧文明に想像を絶するような影響を及ぼし、一世紀におよぶ平和と秩序を消滅させるような打撃をヨーロッパにあたえた。」

「サライェヴォ事件」はキッカケに過ぎません。事件が起こった当時、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島は、いつ暴発してもおかしくない状況でした。ジョージ・ケナンは次のように述べています。

「ヨーロッパの国際社会は機構的に脆弱な点をもっていたのであり、サライェヴォで発射された一弾は、まさにこの脆弱点に命中したのである。そしてその瞬間、どうしたら戦争に訴えないですむかを知っている者は誰もいないという状況が生じたのである。」

戦争の背景

下記は1914年の世界地図とヨーロッパの地図です。広大な植民地を持つ帝国が世界政治の中心だった時代です。

・1914年の世界地図

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・1914年のヨーロッパ

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・19世紀の五大国時代

19世紀は「五大国」の時代でした。イギリス、フランス、プロセイン、オーストリア、ロシアというヨーロッパ列強が世界の中心でした。アメリカはモンロー主義で孤立しており、日本も鎖国していました

新興国家の台頭

20世紀に入り、五大国体制が崩壊します。2つの国の台頭が原因です。まず、プロイセンが1870年の普仏戦争を経て、統一ドイツとしてヨーロッパの大国になります。そして、アメリカが南北戦争を経て、五大国を凌駕する圧倒的な国力を備えます。

・ドイツ帝国の台頭 (覇権国イギリス VS 新興国ドイツ)

1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿で、プロイセン国王ヴィルヘルム一世がドイツ帝国の皇帝に即位しました。その後のドイツの発展は目覚しく、強大なドイツはヨーロッパのパワー・バランスに大きな影響を与えます。さらに、1888年に皇位に就いたヴィルヘルム二世は経済成長を背景に膨張主義に進みます。特に1990年3月に宰相ビスマルクが更迭された後は、より一層冒険主義的な政策を展開するようになりました。

そして、台頭するドイツと当時の覇権国であるイギリスの関係が悪化します。イギリスとの決定的な摩擦を産んだのは、ドイツによる海軍力の増強でした。陸軍の建造であれば、海を隔てたイギリスにとって脅威になりませんが、海軍の建造は脅威です。しかし、ドイツはイギリスとの関係悪化を意に介さず、1911年に「ティルピッツ計画」を策定し、イギリスに次ぐ世界第二位の海軍力を建設しました。

ドイツによる海軍力の増強により、新興国ドイツと覇権国イギリスは「トゥキュディデスの罠」に嵌ります。トゥキュディデスの罠については、以前の投稿で記載していますのでご覧下さい。

・アメリカの台頭 (孤立する大国)

南北戦争を経て、アメリカは五大国を凌ぐ、強大な力を付けていきました。ただ、アメリカは建国以来モンロー主義を取り、ヨーロッパ政治から距離を置いていました。しかし、ドイツ、フランス、ロシアと敵対関係にあったイギリスが、アメリカに近づきます。

今でこそ、イギリスとアメリカは兄弟国のようなイメージがありますが、19世紀末のイギリスにとって、アメリカと友好関係を築くことは決して容易な話ではありませんでした。1812年の第二次英米戦争が尾を引いて、アメリカはイギリスを最大の仮想敵国として見做していたのです。

覇権国のイギリスにとっても、かつての植民地であるアメリカとの関係を構築することに感情的な抵抗はありましたが、ヘイ=ポンスフォート条約など政治的妥協を重ね、協調関係を築こうと努力しました。

しかし、アメリカのモンロー主義は根強く、戦争が始まってもヨーロッパへの介入を拒絶していました。1916年にウィルソン大統領は演説で、戦争について次の通りに述べています。

「アメリカは始めこの戦争の意義を充分理解しなかった。それはヨーロッパの錯雑とした政治の鬱積した嫉妬心と競争心とが自然に掻き出されたのに似ていた。」

ウィルソン大統領の言葉に現れている通り、当時のアメリカは欧州のパワー・ポリティックスに巻き込まれたくないという気持ちが非常に強かったのです。

二極化(外交の硬直)

当初イギリスはドイツとの協調路線も探りました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世とイギリス国王のジョージ五世は従兄同士の親戚関係だったこともあり、協調は可能だと考えられていました。(なお、ロシア皇帝のニコライ二世も従兄同士です。第一次世界大戦は「従兄同士」で戦われた戦争でした。)

しかし、ドイツとの協調は進まず、イギリスとドイツは「トュキディデスの罠」に嵌り、互いに不信感を募らせました。そして、1904年にイギリスは「栄光ある孤立(オフショア・バランサーとして孤立した地位)」を放棄し、フランスとの同盟を締結します。フランスは既にロシアと同盟関係(露仏同盟)にあり、これが「三国協商」へと発展しました。

三国協商により包囲されたと感じたドイツは、オーストリア=ハンガリーとの関係を強化します。こうして主要国が最終的には三国協商を中心とした「連合国」と、ドイツとオーストリア=ハンガリーを中心とした「中央同盟国」という二つの極に集約されて行きました。二極化は「安全保障のジレンマ」を深刻化させます。歴史家のクリストファー・クラークは次のように述べています。

「同盟の二つのブロック化が戦争を起こしたわけではない。しかし、二つのブロックなしに、戦争はあのようには起こらなかったであろう。」

戦争の勃発

「サライェヴォ事件」から一ヶ月後の1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告を行いました。始まった当時は、誰もが戦争はその年のクリスマスまでには終わると信じていました。しかし、戦争は4年以上におよび世界を巻き込む大戦争となったのです。

第一次世界大戦は、それまでの戦争に比べ、桁外れの損害を出したことが特徴です。第一次世界大戦では、2000万人の死者を出ました。(日露戦争の死者数は約15万人です。)総力戦により民間人に多数の犠牲者を出し、戦車や毒ガスなど近代兵器が登場したことも死傷者数の増加に繋がりました。さらに、塹壕戦により戦争は長期化し、双方の陣営で死者が積み上がりました。ジョージ・ケナンは次の通り述べています。

「もし第一次世界大戦について何か特別なことがあったとするなら、それは、ただ戦争が恐ろしく長い間、同じ具合にそして同じ場所で続けられたということである。(中略)損傷は双方にとってまことに甚大であった。いつ死ぬ番が廻って来るかを、ほとんど自分で予測できたほどだった。全く言語道断の無益な殺生であった。」

しかし、どれだけの死者が出ても、戦争が止まることはありませんでした。むしろ、戦闘が継続されていくうちに、敵国に対する憎悪が国民世論の中でますます高まり、もはやどちらかが完全に倒されるまで各国の指導者は途中で妥協することはできませんでした。1929年にウィンストン・チャーチルは、「戦火は、自ら燃え尽くすまで、猛威をふるった」と述べ、さらに次のように言っています。

「事態の推移は全く意識的に選択できる範囲外にあった。どの政府も個人にしても、悲劇のリズムに乗せられ、とどまることを知らぬ程の規模をもって殺戮と浪費に向かって、あてもなくよろめき歩いたのであり、ついには、一世紀をもってしても癒すことのできないような、そしておそらく現代の文明にとり致命的ともなるであろうような傷が、人間社会の組織に与えれたのであった。」

その後、1917年に巨大な生産力を有するアメリカが参戦することで、連合国側が優勢となります。そして、ドイツが1918年11月に休戦協定に調印し、第一次世界大戦が終結しました。しかし、4年間にわたる戦争は、双方に深刻な損害を出し、ヨーロッパに致命的な傷がつきました。

第一次世界大戦は不可避だったのか?

桁違いの損害をもたらしヨーロッパを荒廃させた第一次世界大戦は不可避だったのでしょうか。当時の各国の指導者が別の選択を取っていれば、戦争を避けることは出来たのでしょうか。本当に避けることが出来たかどうかを実証することは不可能ですが、思考実験として検討することには意義があります。戦争に関わる要素を区別して検討し、将来に対する教訓を見出すことが出来るからです。

国際政治学者のジョセフ・ナイは次の通り述べています。

「もし第一次世界大戦が過剰決定されているのだとしたら、それは戦争が不可避だったことを意味するのであろうか?答えは、否である。戦争は1914年8月に実際に勃発するまで不可避ではなかった。そして開始された時ですら、以後4年にわたって殺戮が続かなければならないなどという必然性はなかった。」

戦争を不可避にした国民世論

しかし、今回は「第一次戦争をどう回避できたのか」ではなく、あえて「戦争を不可避にした要因」について分析したいと思います。戦争を不可避にした最大の要因は当時の「国民世論」です。

1914年当時、戦争を望んでいたのは国民でした。第一次世界大戦に参戦した多くの国の国民は、戦争に反対せず、むしろ歓迎していたのです。当時の国民世論の雰囲気をチャーチルは次のように述べています。

「空気中には奇妙な気分が漂っていた。物質的繁栄に飽き足らず、各国は内的にも外的にも戦争を激しく求めた。国民の激情は、宗教の衰退によって不穏当にまで崇められ、ほとんどすべての国の地中で、隠されつつも、強烈な炎をあげて燃えていたのである。ほとんどの世界は、自ら苦しもうと欲していたかのようであった。いたるところで、人々が打って出たがっていたことは確実だった。」

ヘンリー・キッシンジャーも当時の雰囲気を次の通りに述べています。

「第一次世界大戦は、熱狂した大衆と陶酔感にとらわれれた指導者たちに、大歓迎された。限定された目標の短期決戦で栄光を手に入れられると、だれもが空想していた。」

第一次世界大戦を避ける方法はあったでしょう。しかし、戦争を不可避にしたのは熱狂する国民世論でした。

なぜ国民世論が戦争を選んだのか?

一般的にどの国の国民も平和を好み、戦争を避けるはずです。では、なぜ国民世論は戦争という道を選んだのでしょうか。ジョージ・ケナンは次のように述べています。

「どの国でも大衆というものは、通常平和を愛好しており、戦争という恐るべき惨禍よりは、多くの制約と犠牲とを甘受するということは、真実であるかもしれないし、私は真実であろうと思っている。だが、同時に私は、民主的政府をもっていると自任している国の大部分において、世論といわれているものがしばしば大衆の意見を全然代表せずに、政治家、評論家およびあらゆる種類の宣伝家など(人気集めの能力によって生活し、もし沈黙を強要されたら、陸に上がった魚のように悶死してしまう人たち)非常に騒がしい少数の連中の利益を代弁しているのではないかと思うのである。この種の人びとは、軽率なまた盲目的な愛国心をあおるようなスローガンに逃げ道を求める。」

歴史を通じて、国家の指導者や一部の国民がナショナリズムを扇動し、戦争に向かったことは一度や二度ではありません。合理的に考えれば、戦争を避ける方法はいくらでもあったのかもしれません。しかし、一度燃え上がった国民世論を抑えることは出来ません。第一次世界大戦の背景にあるイギリスとドイツの関係にも、国民世論が強い影響を与えました。20世紀初頭のイギリスの対ドイツ政策の転換について、国際政治学者の細谷雄一氏は次のように述べています。

「イギリス政府はそれまでの方針を大きく転換し、1907年以降から勢力均衡の論理に基づいてドイツに対抗するようになる。これは実に奇妙なことであった。理性的に考えるならば、イギリスがドイツと戦争をする必然性など、見つからなかったからだ。(中略)むしろ、ナショナリズムが勃興し、それらの熱情に国民世論が動かされて、現状維持国であるイギリスとその挑戦国であるドイツとが衝突したと見るべきであろう。」

第一次世界大戦の教訓とは?

第一次世界大戦の原因は「トュキュディデスの罠」や「二極化」など、構造的な要因が背景にありました。当然、戦争の原因は他にもありますが、国際政治の構造上要因が大きく影響しています。正しい政策決定をするためには、一つ一つの事件や危機への対処も大切ですが、常に世界全体を見渡し、現在の国際政治の構造を把握する必要があります。

1914年当時、ほとんどの人は「サライェヴォ事件」が史上最悪の戦争を引き起こすとは思っていませんでした。しかし、国際政治を俯瞰的に把握している人は、迫り来る危機を正しく予測していました。例えば、1913年にアメリカの外交官ルイス・アインシュタインは匿名である論文を発表しました。この論文の中では、ヨーロッパに嵐の前兆が現れていること、英独間の敵愾心の深刻さ、戦争が突発的な事件から勃発するリスクがあることなどについて書かれています。つまり、俯瞰的に国際政治を観察していれば、正しい情勢判断をすることも可能だったということです。

また、国民世論にも注意が必要です。新型コロナウイルスのパンデミック前から世界各国ではポピュリズムのリーダーが出現しています。ケナンの指摘通り、そういったリーダーは軽率なスローガンで国民を煽ります。そして、気づけば苛烈なナショナリズムが出現し、もはやリーダーが手に負えない程、国民が熱狂する時があります。決して、民主主義が悪いというわけではありません。ただ、民主主義にも欠点があることを把握し、国を代表するリーダーは慎重に選ぶ必要があるということです。

世界は第一次世界大戦という悲劇を経験し、二度と同じような悲劇を起こさないために、努力しました。しかし、それでも第二次世界大戦が起きたのです。世界の平和のために何ができるのか。誰かに言われるのではなく、一人一人が考えて行くことが一番大切なことなのではないでしょうか。

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元国会議員秘書、現在ロンドン大学大学院にて国際関係論を研究。投稿は国際政治中心ですが、トピックのリクエストも受け付けています。お気軽にコメントください。(ここの投稿は議員と関係ありません。)

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コメント (1)
ツイッターなんかを見ていると、『意見』が際限なく両極に分かれるような特性があり、その影響が、今後社会にどのように現れるか、心配です。
また、現代のように、大量破壊兵器の使用が切々と身近に感じられる昨今、“紛いなりにも”民主主義において、選挙で「正当に」選ばれない人々が、国の舵取りであることに身震いします。
ご近所さん。
どのような人物であれ、正当な方法で、国民の付託を受けたからには、自分が押そうとしているボタンには、自国民の生命と財産以上に名誉が懸かっていると自覚してよいものを。
一説に、日本に二つも原爆を落とす決定をしたのは、副大統領上がりのトルーマンであって、先の意識が薄かったのでは…と。
高校の東大哲学卒・赤🚩の先生がコボしてました。
まあ、今、トルコのエルドアンはやる気マンマンですし。
この先、いつ同時発火しないとも限らない。
何を信じて、今後生きていげはよいのやら❔😧
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