社会人1年目で休職しました

前回のテキストよりだいぶ期間が空いてしまった。
継続できない女の悪いところが全て出ている。

さて、タイトル通り休職しました。
いや、現在進行形で休職している。
今流行りのメンタルの不調というやつで、
見事落ちこぼれ社会人のできあがりである。
 
こんな風にならずに働けなかったのか。
もっと努力できたのではないか。
未だに正解が分からないけれど、書いてみようと思う。
休職している間にすっかり人としてできることができなくなっていて、まともに外出も食事も人との会話もできない。とっても気合を入れて外に出た次の日は一日寝込んでいる。だめだめだ。
このnoteも、伝わるように書けているか自信がないけれど、自分のための記録として書いてみようと思う。読んでくれる人がいたらちょっと嬉しいな、くらいの感覚。あくまで私の側から見た話だし、社会人として甘いことばかり言っていると思うけれど。

1.入職と係長


教育関係の仕事に就いた。
といっても学校の先生などという高尚な仕事ではなくて、教育関係の末端のような仕事だ。
なかでももろにコロナの影響を受ける部署に配属されてしまい、特に忙しい年だったらしい。いつもなら落ち着いている時期があるのだけれど、今年はずっと忙しいね、なんて先輩がいつも言っていた。

希望としては別の部署に行きたかったけれど、最初から希望通りの配属なんて有り得ないし、これも何かの糧になるだろうと、あまり落胆はなかった。仕事ができないなりに業務は面白かったし、それなりにやりがいもあった。コロナに関係する業務も多かったけれど、入職直後に濃厚接触者の濃厚接触者になった時点で、なんだかコロナがそこまで怖くなくなってしまった。感覚が鈍ってしまったのだと思う。この一年で3回、濃厚接触者の濃厚接触になっている。接触した濃厚接触者から陽性反応が出た場合、強制的に私も隔離されるやつだ。濃厚接触者よりは危険度が下がるのでそこまで騒ぐものではない。まあよくあることだと思う。

配属された部署の係長は、採用からお世話になった人で、面倒みの良い人だった。他部署におつかいに行くとよく「○○さんのところの新人さん?よかったね○○さんのところなら安心だよ」と言われた。恵まれた環境なのだから頑張ろうと思ったし、そこで潰れたら私がだめなんだなと思った。

この係長はかなり仕事が好きな人で、元々新入社員としてこの係に配属された後、様々な係を経て自ら強く希望して戻ってきたらしい。
係長が新入社員だったときのこの係は、新しく発足されたばかりで、膨大な業務量に対し当時の係長と新入社員の2人しかいなかった。当時新入社員だった係長はほとんど全ての業務を掌握し、毎日深夜3時まで仕事をしていた、全て自分がやっていた、それが自信に繋がった、だから谷崎さんにできないことはない、というのが係長の口癖だった。
係長は夜遅くまで仕事をするのが好きで、毎日終電近くまで働いている。コロナの影響もあったらしいけれど、私もその影響で入職3日目から早速終電コースだった。定時で帰れたのは2回だけだ。(係長が休みかはやく帰った日は部下の我々もはやく帰ろうと先輩と決めていた。それがこの2回である。)

毎朝8時には席に座って、終電に間に合うように帰る。
21時に職場を出たらめっちゃ早いやん!という感じ。
まあそれなりに業務量も多いし、何せ新人なので先輩からしたらなんでもないようなことも時間が掛かってしまっていたと思う。事実、係には人が足りなかった。


不思議と忙しいのも夜遅いのも苦ではなかった。
私は容量が悪く、仕事は限りなくできない。
キャパも低ければスペックも低いので、できるようになるまで時間をかけて努力するのは当たり前だし、なにより係長の「俺が新入社員のときは全部やってたよ」という口癖を毎日聞いていたのでできなければおかしいと思っていた。 
「もう1週間経ったよ」と言われた日から、係長や教育係の先輩の私を はやく一人前にしようという声掛けが増えていった。

「もう入って1ヶ月経つよ」「もう3ヶ月経ったからね」「半年経ったからもう一人前にならないといけないよ」「来年には先輩達いないからね」(これに関しては入職初日に先輩に言われた)やる気よりも焦りの方が濃くなっていった。
 

2.先輩と業務量


ひとつ上の先輩は、中途採用の先輩で、2年目といっても社会人経験が年数よりも豊富で、かなり仕事のできる先輩だった。次席として、係長の下でほとんどの業務をこなしていた。上の方針としては、教育係を固定せず、係皆で新人を育成するつもりだったらしいが、係長の方針で、係の業務を8割こなしつつ、私の面倒もほとんど全てひとりでみてくれていた。

先輩自身も大変な中、新人の私にも色々と仕事を経験させてくださって、新入社員としてはありがたいほどに色々と業務に関わらせてもらったと思っている。途中、いっぱいいっぱいになり過干渉になった先輩と自分のことで精一杯な私とでぶつかってしまうこともあったけれど、なんだかんだで良くしてもらっていたように思う。

8月、繁忙期中の繁忙期、そんな先輩が残業中ぽつりぽつりと係長の愚痴をこぼすことが増えていった。「業務配分がおかしい」「係長自身が前線に出過ぎていて、マネジメントができていない」「俺の負担が大きい」

係長のこともあるけれど、言外に私のせいで先輩の負担が大きいと責められているようで、肩身が狭かった。先輩はそんなつもりではないと言ってくれていたけれど、私がもっと業務をこなしていければ、先輩の負担はもっと減ることは明らかだった。

かといって、私が全く仕事をしていなかった訳ではない。担当業務の他、コロナ対応やトラブル対応もしていた。同期の中では残業量はダントツに多く、課長や部長からも業務量と長時間労働を心配して声を掛けられていた。あとから聞いた話では、私が配属された係の残業量が社内でも圧倒的に多いことから、上からかなり目をつけられていて、係長のマネジメント能力が問題視されはじめた時期だったらしい。先輩は係長が本来おこなうべき仕事もこなしていて、他の先輩に比べて圧倒的に負担が大きいことも、原因だったように思う。

別に係長が仕事をしていない訳ではない。ただ、本来部下に任せてしまっても良いことも全て係長が関わらないと気が済まず、そこから芋づる式に余計な仕事まで引き受けて、自分から仕事を増やしているために下に皺寄せが来ていたように思う。

3.余裕のない係

11月、後任補填無しにひとりが人事異動となった。私はというと、初めて大きなプロジェクトを任されていた。昨年そのプロジェクトを担当していたお局様に「これを見たら全部分かります」とぐちゃぐちゃのフォルダを見せられ、困惑していた時期だ。「これを見れば全部分かります」と言われたマニュアルはマニュアルとは呼べないもので、随時先輩に確認しながら業務を進めていても、抜けがあることなんてしょっちゅうだった。「これはメールで依頼をします。メールはフォルダに入っています」と言われるがメールは格納されておらず、夜中にこっそり教育係の先輩にお願いして、過去のメールフォルダを見せてもらったこともある。
もちろん、余裕なんてなかった。

でも、唯一の頼みの綱の教育係の先輩も、私ばかりに構っている暇はない。ただでさえ人が足りないのに、異動した先輩が担当していた仕事が炎上していることが、次から次へと判明していた時期だった。新しく増えた業務をこなしながら、鎮火作業をおこなう。明らかに先輩は苛立っていた。

特に、一番ミスしてはいけない案件が大炎上していた。
これは、係長が余裕がないために適当にOKを出したことも原因のひとつで、当の本人が異動していることもあり、全ての後始末をしなければいけなくなった係長は、あからさまに周りに当たるようになった。係全体がピリピリしていて、毎日どう過ごしていいか分からなかった。そんなことで萎縮してはいけなかったのに、どう仕事を進めていいか、お願いしていいか、全てが分からなくなって、結果準備不足で係全体に迷惑をかけた。全てが一段落したとき、先輩達は係全体の雰囲気が良くなかったことや連携が取れていなかったことなどを含め、私ひとりが悪いわけではないとフォローしてくれたけれど、もう全てが手遅れだったように思う。

4.全部上手くいかない

この頃からうまく眠れなくなって、通常ならばしないようなミスが増えていた。4月から日付が変わるギリギリに帰宅して床で寝て、朝お風呂に入って出社する生活が続いていたのもあり、私の業務の進め方がおかしいのではないかと、係長に相談してみたけれど「そのうち慣れるよ」と言われてしまえば、それ以上なにも言えなかった。業務の進め方や仕事の考え方などは全て先輩に相談してフィードバックを貰っていた。
係長は「谷崎さんはミスするとかなり重く受け止めちゃうから、大丈夫かなという心配が勝ってしまってフィードバックできない」と言って、フィードバックをしてくれない人だった。へこんでいるのが顔に出ないように意識して、自分からフィードバックを貰いに行ってもやっぱり「慣れだよ慣れ」と言われてしまうと何も言えなかった。

12月、欠員を埋めようと係長は係に人を増やしていったけれど、相変わらず業務分担には偏りがあって、先輩ひとりがほとんどの業務をこなしていた。11月の私の担当業務での失敗が影響したのか、先輩は係長からは何かを言われているらしく、私がやらせてくださいと言っても業務を任せては貰えないことが多々あった。先輩も、係長に「谷崎さんに何をどれくらいお願いしていいですか?仕事をお願いしてはいけない理由はありますか?」と聞いてくれていたけれど、はっきりとした答えは貰えなかったらしい。次のチャンスなんて来ないのだ。

私が何も考えてないように見えているのでは、と公開スケジュールに業務進捗を事細かに書いてみたり、私のやる気を見ているのでは、と直接係長に「〇○の件、やってもよいですか?」と聞いてみたりしたけれど、どれもうーんとはぐらかされてしまって、どうしたらいいか分からなくなっていった。

5.完全に係長に見放された

1月、新しく増やした人手に仕事を教えることが係長には相当なストレスだったらしく、年明けには何年か前にうちの係にいた、別部署の先輩が呼び戻された。その先輩は係長のお気に入りで、新しく仕事を教えなくても係のことが分かっていて、係長と仕事がしやすいということが大事なのだと言っていた。教育係の先輩と、呼び戻された先輩の2人に仕事はどんどんと振られていき、私は係全体が忙しいのに社内ニートのような状態に近かった。この頃には、教育係の先輩にお願いして、入職当初にやらせてもらっていた雑用をまた振ってもらうなど、なんとか仕事を探していた。

社内ニートなんだから早く帰れば良かったと今では思えるのだけれど、係長からは「俺が新入社員のときは係長よりはやく帰るのが許されなかった。皆が帰る分には全然良いんだけど、俺の時そうだったから」とお前も残っていけという圧があり、結局遅くまで何かしら仕事を探して残っていた。

係長としては、何かのプロフェッショナルになって欲しかったようで、制度の読み込みやイベントの企画立案など、色々私にやらせてみたけれど、思う通りに成長しないことに苛立っていたらしい。私自身、家に持ち帰って資料を読んでも、徐々に頭に入らなくなっていて、得意だと思っていたこともできないことに、焦りや恥ずかしさや情けなさを強く感じていた。多分、もう私に何をさせたらいいのか、係長自身分からなかったのだろう。仕事が遅い割にミスが目立つこともあり、係長自身が自分でやってしまった方が早いと思っているようだった。

この頃から、私の担当業務の打ち合わせに「谷崎さんはいいから」と参加させて貰えなくなったり、私が係長に報告に行っているのに、細かいことは最初から先輩に聞かれたりということが増えていった。もう係長とどうコミュニケーションを取っていいか分からなくなってしまった。

きっと、係長から見た私は「仕事もできない癖に言い訳ばかり一丁前の新人」「なにもできないのにやる気がない」「この仕事を好きじゃない奴は何をしてもダメだ」という風に写っていたのだと思う。私がいくら努力しても、仕事にやりがいを感じても、そんなものは結果に繋がらないと無意味なのだ。

課長や先輩は、この様子を気にかけてくださっていて、「係長の求める最低レベルの基準があまりにも高いだけだから焦らなくていい」「まだ一年も経ってないのだから3年後には独り立ちのつもりでいていい」「ちゃんと仕事できているのに、そんなに自信をなくすことはない」と言ってくださっていたけれど、誰が何を言おうと何も信じられなかったし、全部自分が悪いと感じていた。
正直、今もそう思っている。

6.なにもできない

2月、もう食欲もなくて昼休みはずっと机で目を閉じていた。家に帰ってもずっと泣いてしまって、食事どころじゃない。泣き疲れてようやく眠れるような状態で、それでも2.3時間おきに目が覚める。仕事の夢ばかり見てしまって、疲れなんて取れなかった。

ある時、係長に「来年には先輩達もいないから次席は谷崎さんになるからね。俺と二人三脚みたいな形で、係を引っ張って貰うからね。谷崎さんにかかっているからね」と言われた。期待しているよと、あなたに目を掛けているよとやる気を出させようとしたのだと思う。

今しかないと思って、言った。
「頑張ります、けれど今の状態が続くようなら不安です」
係長との関係性や業務分担など、今相談しないと思った。私に掛かっていると言うのなら、仕事を与えないようにするなんてことしないで欲しい。自分で取りに行っているのに、そのうえで干されるのはつらい。
けれど係長には、伝わるはずもなくて、私が努力もしないで不安がっているように見えたらしい。
「次席って自由なポジションだから、係長のすぐ下で思い通りに業務を進められるのすごく楽しいよ!」と言われた瞬間、ああこの人には何を言っても伝わらないんだな、ついていけないな、と思った。もう本当に限界だった。

この頃から完全に私は糸が切れてしまって、係長との接触を必要最低限に抑えてしまっていた。係長はこの段階になってようやく芳しくないと感じたのか、ことあるごとに声を掛けてきてくれたけれど、取り繕うことすらできなかった。「谷崎さん俺には何も相談してくれないから寂しいよ」なんて言われたけれど、何を相談すればよかったのだろう。第一、業務時間内は忙し過ぎて係長が席にいることはほとんどないのだ。21時過ぎまで待って、ようやく声を掛けることができて、その結果「慣れだよ」と言われるのは、もうごめんだった。

珍しく係長が早く帰宅した2月16日、見かねた教育係の先輩が「もうこれ以上無理しなくていいんじゃないの」と声を掛けてきた。この頃にはお昼に食事に誘われても行くことができなかったし、お化粧すらまともにできない状態で仕事をしていたので、色々目に余ったのだと思う。一年目なんてこんなもんだと思うんだけど……なんて珍しく寄り添ってくれた。でも、もう一年近く経つのにこれじゃあだめなのだと、聞く耳は持てなかった。

休んだ方がいいと言う先輩に、「パワハラを受けてるわけでもないのに、こんなことで休めません」と言ったら困った顔で黙ってしまった。耐えきれなくなって、初めて先輩の前でわんわん泣いて、その日はタクシーで帰った。電車に乗れる状態ではなかった。タクシーの中でもずっと泣いていたので、運転手のおじさんがおつりをおまけしてくれて、また乗ってねと声を掛けてくれた。

次の日は在宅勤務だったけれど、朝からずっと涙が止まらず吐き気が酷くて何も手につかなかった。もうだめだとそのまま先輩に連絡して、課長に話を入れてもらった。係長には頭痛が酷く休むと嘘をついた。

先輩も課長ももう限界なんじゃないかと気にかけてくださっていたようで、面談をしたけれど終始「私がもっと仕事ができたらこんな風にならなかった」としか言えない私を見て、困った顔をしていた。面談後、係長に声をかけられだだけなのに号泣してしまい、そのまま数少ない業務は巻き取られて帰らされた。係長には「季節の変わり目だから頭痛いよな」と声を掛けられたけど、本気で頭痛だと思っているのだろうか。

あの日から私は出勤できていない。
なんとか出勤したくて、駆け込んだ病院の先生には、「泣いて泣いて仕事にならないので薬をください」と言ったら、2ヶ月の休養を言い渡された。2ヶ月なんてとても休めないとごねたので、ひとまず様子見だと1ヶ月の休養に変えてもらったけれど、結局、1ヶ月経っても復職許可がおりずに、今に至る。

「もう私は社会人として落ちこぼれだ」「まともな2年目にもなれなかった」「自分はだめな人間だ」と、あれこれ考えては寝込んでいる。あれから課長がかなりご尽力くださって、色々進展はあるけれど、ひとまず休養の経緯までで。

どうすれば良かったのかなあ。
毎日生きていることがあまりにもつらい。

いいなと思ったら応援しよう!