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小説[ノスタルジーの午後]

ある日の休日。
その女性はベランダにもたれ、
暮れゆく空をぼんやり眺めていた。

32歳OL、既婚者、子供なし。
それが世間から彼女に与えているラベルである。

夜の訪れを知らせる群青と夕日が染め残した茜が溶け合う空は、彼女の目には優しく写った。

春の空気は暖かい。夕方でも風が心地よい。彼女は微睡みながら空を眺め続けた。こくん、こくん。はっと意識を取り戻し、溜め息をつく。また空を見上げ、しばらくするとまた微睡んだ。瞼が重くなり視線が下に落ちる。遠くの道に豆粒ほどの人が歩いているのが見えた。視界をぐんと空に引き戻す。

その時だった。彼女は夕空のノスタルジーに吸い込まれた。体が一気に軽くなる。振り向いたら、肉体はベランダにもたれたまま。彼女は“心ある透明”になって飛んでいた。

街を見おろし、鳥を見おろし、無いはずの両手を広げていた。身体は無い、ただの空気でしかないのに、“心ある透明“は風を感じていた。

初めは流されるまま飛んでいたが、ふと思い立って北に進路を変えた。街を越え、山を越え、新幹線の線路をたどり「あの場所」を目指す。小さい頃は当たり前のように訪れていた懐かしい場所へ。ずっと行きたかったあの場所へ。街が見えた。もうすぐ会える。“心ある透明“は目をつぶり、耳をすました。“心ある透明“を呼ぶ声が聞こえる。その声によって“心ある透明“は小さい女の子になった。彼女は呼び声に応え手を伸ばした。その手を握る人を、彼女はよく知っていた。しわしわで固く温かいおばあちゃんの手―


ふと我に変える。彼女はベランダで長らく寝ていた。頬を載せていた右腕はすっかり痺れている。彼女は“心ある透明“でも“小さい女の子“でもなかった。夢が夢であることに気付く。もう一度夢の中に入り込もうとしたが叶わなかった。涙が出る程泣きたくなったが、涙は出ないと分かり、また泣きたくなった。

彼女はぼんやりと昔のことを思い出す。
駅までおじいちゃんが迎えに来てくれたこと。おばあちゃんが美味しいご飯を作って待っていてくれていたこと。畑で野菜をとって遊んでいたこと。池の鯉をじっと眺めていたこと。猫と日なたぼっこしたこと。

長期休暇が来るまでは、よく学校の屋上に上がり、フェンスの間から遠くの町を眺めていた。あの向こうに大好きなおじいちゃん、おばあちゃんが居るのだと想像した。

全ての時間が愛しく同時に切なく感じた。

今はもう何に乗っても何処まで行っても祖父母には会えない。おじいちゃんとおばあちゃん、いとこにお母さん、猫のむーちゃん。皆でこたつを囲みご飯を食べたあの日はもう戻らない。

思い出は彼女の桃源郷となっていた。

今、彼女を待っているのは溜まった洗濯物と、夕飯の準備と、恋愛し結婚した夫と、週明けからまた始まる仕事である。それらが彼女にどのような意味をもたらすのかは彼女次第である。

女性はベランダから体を起こし室内に戻っていった。飛ぶことが出来なければ、飛び降りることも選ばなかったその足は、彼女が再び自分の意思で歩き始めるのを待っていた。

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