金子みすゞの詩『こだまでせうか』について
JULA出版『金子みすゞ全集』より
こだまでせうか
いいえ誰でも
この最後の2行は、それまで子ども目線で、子どもの気持ちに感情移入していると…突然、誰か違う人が出てきてギョッとする。
よくよく見れば最初から、子どものやりとりを観ている第三者の言葉なのに。
みすゞの詩には、このような造りの作品がけっこうある(今具体的に例をあげられないが、今後ピックアップしてゆこうと思う)。
この唐突に出てくる《人》は誰?そこに神の視座を感じると言ったら言い過ぎだろうか。
「ごめんね」と言ったら、いつでも「ごめんね」と返ってくるだろうか?
謝っているのに拒絶する人がいるのは、いつの時代も変わらないだろう。
であれば「いいえ誰でも」は、そうあって欲しいという願いなのではないだろうか。
そう考えてくるとタイトルが俄然、飛び出す絵本のように迫ってくる。
そう、「こだま」ではなく、「こだまでせうか」と問いかけている。
第3詩集の最後の章『波の子守唄』の巻頭に、みすゞはこの詩を置いた。 この章はまるで、頑張った自分への子守唄のような章だ。もう、永遠の眠りについてもいいよと。
そうした時、この詩に《みんなちがってみんないい》に通じる祈りを感ずる。 みすゞはきっと、《みんなちがってみんないい》とは思っていない。
そう思えるような時代ではなかった。女性が、まともな人間扱いされていなかったのだから。
だからこそ、書いたのだ。女だって、同じ人間なんだよ!!!と。
そして『こだまでせうか』にせよ、『私と小鳥と鈴と』にせよ、その説明は省かれている。 省く勇気、説明しないで我慢する忍耐、読み手に委ねる胆力…それを詩というならば、まさにみすゞは第一等の詩人であったと思う。
youtube谷英美の稽古場
リンク集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?